苗羽小学校旧田浦分校校舎の見学を終え、小豆島最高峰、星が城山の山頂にある星が城跡を目指した。
内海湾を隔てて星が城山を見ると、かなりの高峰である。
果たしてレンタルバイクのホンダ・ディオ50ccで、あの山頂まで行けるのだろうか。
ちなみに、苗羽小学校旧田浦分校校舎の見学を終えた時点で、午後2時30分頃であった。
土庄港を出港するフェリーは午後5時00分発である。あと2時間30分で、スクーターであの山頂まで行って城跡を見学し、土庄港に到着することが出来るのか。ちょっと不安になった。
草壁本町まで戻り、県道29号線をスクーターで北上する。山頂まで至る急坂をひたすら上った。
小豆島は、全島が花崗岩で出来ている。星が城山も、花崗岩の断崖が所々顔を覗かせている。
中国の山水画の世界のような奇観である。
紅葉の名所である寒霞渓は、このような花崗岩の断崖で出来上がっている。
ひたすら山道を上がって行く。私は長袖のポロシャツであった。この日は10月14日であったが、山頂に近づくと気温が一段下がり、ポロシャツでは肌寒くなった。
山頂付近の駐車場に着くと、午後3時13分であった。何とか午後5時のフェリーに間に合うかも知れない。
それにしても、こんなところまで原付で来る物好きはあまりいないだろう。
ここまで付き合ってくれたスクーターに思わず「ご苦労さん」と声をかけた。
星が城跡は、南北朝時代に南朝方についた備前児島の豪族佐々木信胤が、小豆島に上陸して築城した城の跡である。
山頂近くの駐車場から、山頂の城跡に至る登山道が始まっている。
私はフェリーの時間に間に合わせるため、小走りでこの山道を登り始めた。すぐに息が上がった。
しばらく行くと、丁字に行き当たった。
星が城跡は、標高約816.6メートルの東峰と標高約804.9メートルの西峰に分かれている。
東峰と西峰の間の距離は約550メートルである。
私は先ず西峰に向かった。
西峰に向かって最初に目にするのは、下の空壕である。
長さ10.8メートル、幅4メートル、深さ1.5メートルの空壕というが、ほとんど埋まってしまって、少し凹んでいる程度である。
外敵から城を守る防御施設である。
下の外壕から西に行くと、西峰の居館跡がある。
水はけをよくするため、北側が少し傾斜した土地に建てられたようだ。
山城は麓に居館が建てられることが多かったが、さすがにこれだけ高い山城だと、山上と麓を頻繁に往復することは出来ない。
佐々木信胤も、戦時には山上で生活したことだろう。
さて、居館跡から南側の切岸の上を見上げると、低い石塁のようなものが見える。
近づくと、西峰阿豆枳(あずき)島神社を囲む石塁であった。
西峰阿豆枳島神社は、伊邪那岐命と伊邪那美命の国生み神話で、伊邪那美命が生んだとされる小豆(あずき)島のまたの名である大野手比売(おおぬてひめ)を祀った神社である。
名前からして、小豆島の性別は、女性であるらしい。
この神社がここに鎮座したのは意外と新しく、文化三年(1806年)である。
西峰阿豆枳島神社の建つ辺りは、曲輪の跡と思われる削平地で、南側に内海湾と四国の眺望が広がっている。
よくもこんなところまで原付で来たものだ。大冒険をした気分である。
西峰阿豆枳島神社から西に行くと、外空壕がある。
外空壕は、西からの敵を食い止めるためのもので、元々は深さ3.5メートルもあったそうだ。
時の経過と共に木や葉が枯れて土になり、壕を埋めてしまったようだ。壕の跡だと教えられなければ気が付かない。
日本の山を覆う森林は、葉や幹が枯れて土を作っていくが、土は雨に流されて山から麓に流れ出て平地を広げていく。
日本を山や森林が覆っている限り、日本の国土は広がり続けるだろう。
外空壕から居館跡に戻る途中、西峰の城跡の貯水施設跡である水の手曲輪があった。
山腹の水を集めて貯水する施設であったらしい。
安山岩が転がっているが、石を敷き詰めて水汲み道を作っていたらしい。
小豆島は降雨が少ない地域である。山上での飲み水の確保は、籠城時の至上命題であったろう。
西峰の見学を終え、私は東峰に向かった。