松帆地区の青銅器

 日光寺の参拝を終えて、車を北西に走らせる。一路播磨灘を目指した。

 兵庫県洲本市五色町鳥飼浦には、海水浴場として名高い五色浜がある。

五色浜

 五色浜の砂浜の小石は、近くの礫岩の地層にあるチャートや結晶片岩や砂岩が、波によって洗いだされ、砕かれて堆積したものである。

 白赤茶灰黒といった様々な色の小石が混じりあっているから、五色浜という。

 満潮時だったからかも知れないが、砂浜の幅は狭かった。昔は五色浜の砂浜は、もっと広かったという。地球温暖化による海面上昇の影響もあるのだろうか。 

 私が訪れた時、鳴門海峡の方向から雪雲が現れ、みぞれ交じりの雨になった。強い風が吹いてきた。

 五色浜から南にある、南あわじ市松帆慶野の銅鐸出土地、中の御堂を訪れた。

中の御堂

 貞享三年(1686年)、御堂屋敷跡と呼ばれていた中の御堂から、銅鐸8点が出土した。

 中の御堂は、日光寺が過去に建っていたあたりと言われている。発掘された8点の銅鐸の内、現存する1点が日光寺で保管されている。

 日光寺の銅鐸は未公開だが、南あわじ市滝川記念美術館玉青館にレプリカが展示されている。

 この袈裟襷文銅鐸には、全国的にも珍しい長さ11センチメートルの舌が付いている。

 舌は、銅鐸を鳴らすためのもので、銅鐸内に紐で吊るされていたものである。

 日光寺所有の銅鐸は、国指定重要文化財である。

中の御堂から出土した日光寺所有銅鐸のレプリカ

 日光寺所有の銅鐸は、弥生時代中期に制作されたものである。弥生時代中期は、紀元前1世紀から紀元1世紀半ばまでの期間である。

 南あわじ市松帆地区からは、銅鐸や銅剣、銅鏃などが出土している。弥生時代中期には、銅器を制作する工房が松帆地区に広がっていたことだろう。

 現在慶野地区自治会が所有し、洲本市立文化資料館で展示されている袈裟襷文銅鐸も、江戸時代後期に中の御堂から出土したものと言われている。

慶野銅鐸のレプリカ

 慶野地区自治会が所有する銅鐸も、弥生時代中期の制作である。玉青館にレプリカが展示されている。

 こちらも国指定重要文化財である。 

 中の御堂から南には、慶野松原という白砂青松の海岸が広がる。

慶野松原

 慶野松原は、国指定名勝である。私が訪れた時は、まだ小雨が降り続き、風が強かった。

 駐車場から降りて海に向かって歩くと、黒松の林が帯のように広がり、その先に砂浜があった。

慶野松原の黒松の林

慶野松原の砂浜

砂浜と松林

 風が強い中砂浜を歩いていると、石造の鳥居が目に付いた。

松原と鳥居

 松林の中に鎮座する事代主神社の鳥居である。慶野松原の事代主神社は、地元の人から「北のえびすさん」と呼ばれているらしい。

海と鳥居

事代主神社の参道

事代主神社の拝殿

事代主神社の本殿

 松林の中のお社は、古くからこの海岸を見守り続けてきたことだろう。静かに手を合わせて瞑目した。

 慶野松原の西側に、マツモト産業株式会社という、建設資材を製造販売する会社がある。

マツモト産業株式会社

 平成27年に、この会社の加工工場の砂山から、7点の銅鐸が発見された。

 これらの銅鐸は、松帆銅鐸と名付けられ、玉青館で実物が展示されている。

松帆銅鐸が発見された砂山

発掘された松帆銅鐸

 工場の砂は、数年間かけて松帆地区の様々な場所から集められ、集積されていたものである。

 そのため、これらの銅鐸が、元々松帆地区のどこに埋まっていたのかは分かっていない。

 松帆銅鐸が珍しいのは、大きい銅鐸の中に小さい銅鐸がはめ込まれた入れ子状態で見つかったことである。

 さらにそれぞれの銅鐸に舌が付属していた。しかも舌に紐が付いた状態で発見されたものもあった。

松帆銅鐸(3号)

紐付きの舌

 紐が付いた状態で銅鐸が発掘されたのは、全国で初めてである。

 松帆3号銅鐸には、「王」という文字も印されている。

3号銅鐸に印された王の字

 松帆銅鐸も弥生時代中期の制作品とされている。

 この時代には、日本列島にはまだ文字は伝来していない筈である。

 銅鐸は、鋳型に溶けた銅、錫、鉛を流し込んで制作した。鋳型に王という字が刻まれていたのだろう。

3号銅鐸の鋳型のレプリカ

 まだ日本に文字が伝わっていなかったことから考えると、この鋳型自体が朝鮮半島など海外から輸入されたものだった可能性がある。 

 さて、南あわじ市松帆古津路にある南あわじ市立西淡中学校のあたりは、昭和41年に銅剣14口が見つかった場所である。

 現在、西淡中学校の南側に、古津路銅剣出土地の碑が建っている。

古津路銅剣出土地の碑

 ここから発見された2口の銅剣は、大分県大分市浜と広島県尾道市大峯山から出土した銅剣と同じ鋳型で作られたものであることが判明した。

古津路銅剣

 どの出土地も、瀬戸内海に面している。この3地域から出土した銅剣が、同じ鋳型から作られたということは、弥生時代には、瀬戸内海沿岸が航路によって結ばれ、広域の文化的交流をしていたことを示している。

 弥生時代中期は、まだ大和王権が誕生する前である。銅鐸は、大和王権誕生前の文化圏の所産である。

 銅鐸は、大和王権の勢力が広がると同時に使われなくなり、捨てられるようになった。

 日本最古の銅鐸は出雲から見つかっている。また出雲の荒神谷遺跡からは、358本の銅剣が埋められているのが見つかった。

 弥生時代の日本の青銅器文化は、日本海を通じて青銅器の先進地域だった朝鮮半島と交流のあった出雲勢力が、瀬戸内海沿岸まで勢力を広げながら伝播していったのではないか。

 そして、大和王権が広がると同時に、出雲由来の各地の青銅器文化は、大和王権古墳文化に吸収統合されていったのではないか。

 記紀に書かれた出雲の国譲り説話は、古代の日本の文化的変遷の名残を伝えているような気がする。