平生山東山寺

 浄瀧寺の参拝を終え、次なる目的地の東山寺に向かう。東山寺は、真言宗の寺院で、淡路市の常隆寺、洲本市の千光寺と並ぶ、淡路三山の一山とされている。

 東山寺は、弘安十年(819年)に弘法大師空海がこの地を訪れ、伊弉諾神宮の鎮護のために開いた寺とされている。

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参道入り口

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辻地蔵

 東山寺は、淡路市長澤の山中にある。細い山道を走ると、突然視界が開けて、参道の入口が見えた。参道入口には辻地蔵が祀られている。

 ここから参道を車で上がると、山門が見えてくる。

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山門

 東山寺は、開創時は、今の奥の院のある山中に七堂伽藍を備えていたが、不慮の火災により焼失した。

 それから時を経た弘安八年(1285年)に、現在の場所に再建された。

 現在の山門と本堂は、淡路守護が住んだ養宜(やぎ)館の主、細川頼春が、南北朝期に寄進したものと伝えられる。

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山門の軒

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山門の仁王像

 南北朝期の建物である山門と本堂は、淡路最古の木造建築物とのことだが、山門を見ても、そう古いものに見えなかった。

 ただ、柱だけは、虫食いの状況などから室町時代のものに見えた。

 私は、史跡巡りを始めてから古い建物を数多く見てきたが、最近になって、虫食いの状況や表面の風化の度合いなどから、使われている木材が大体いつごろのものか見当がつくようになってきた。

 柱以外の木材は、後に補修されたものだろう。

 山門を過ぎて、本堂に向かう。

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本堂への参道

 東山寺は、戦国時代から江戸時代にかけて徐々に衰退していった。山中の寺院で、檀家がほとんどいなかったため、江戸時代中期には無住の寺になってしまったという。

 幕末になって、讃岐の佐伯心随尼という尼僧が東山寺を再興したという。讃岐の佐伯氏と言えば、弘法大師空海の出身氏族である。

 心随尼の夢に弘法大師が現れて、東山寺の復興を託したという伝説がある。

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本堂と不動堂

 幕末に、頼三樹三郎頼山陽の三男)や、梁川星巌といった尊王の志士が東山寺に集まって、倒幕の密議を行ったという。心随尼は、志士たちの潜伏を助けたようだ。

 淡路の目立たない山中の寺院は、密議に相応しかったのだろう。

 また、心随尼は、志士たちに頼まれて、京都の尊王攘夷運動の重要人物だった京都石清水八幡宮別当寺、護国寺の道基上人への密使の役割も果たしていたそうだ。

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本堂

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 本堂には、本尊の千手観世音菩薩像が祀られている。弘法大師手ずからの作と言われている。
 本堂の隣には、不動堂があり、その隣には毘沙門天王を祀る毘沙門堂がある。

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不動堂

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毘沙門堂

 また、鐘楼には、天和三年(1683年)の銘のある梵鐘が架かっている。

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鐘楼

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天和三年の梵鐘

 この梵鐘は、名鐘として、戦時中の供出を免れたという。
 ところで東山寺には、国指定重要文化財薬師如来立像と十二神将像がある。今はこれらの仏像は、鉄筋コンクリート製の薬師堂に安置されている。

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薬師堂

 これらの仏像は、元々は、先ほど書いた京都の石清水八幡宮別当寺の護国寺にあったものだった。
 神仏習合の時代には、神は仏が権(かり)に現れた姿(権現)とされ、神社を管理する寺院として別当寺が置かれた。

 別当寺には仏像が祀られ、管理者の別当が祭儀として読経を上げていた。
 明治になって、国学者が唱えた復古神道が国の教義に取り入れられ、政府から神仏分離令が出された。

 それを受けて、日本中で廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、神社と隣接する寺院は、神社と分離するか、廃寺となることを余儀なくされた。

 護国寺も廃寺となり、仏具は売却され、仏像は山に捨てられた。

 平安時代に彫られた本尊薬師如来立像と、仏師真快が作ったとされる十二神将像も山中に放置された。

 護国寺別当だった道基上人は、これに心を痛め、尊王攘夷運動で親交を結ぶことになった心随尼のいる東山寺に、これらの仏像を運び、後世に伝えることを決意した。

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薬師如来立像が祀られている厨子

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十二神将

 これらの仏像は、明治2年に石清水八幡宮のある男山から、人目に付かないように1人1体を背負って搬出され、淡路の東山寺まで運ばれた。

 仏像は、700円で拝観できる筈だったが、当日私が僧侶に尋ねると、拝観は不可になっていると言われた。これもコロナ禍のせいか。

 薬師堂の中央の厨子に安置されている薬師如来立像は、石清水八幡宮が創建される前に男山にあった石清水寺の本尊だったと伝えられる。

 そんな由緒ある仏像が、今淡路の山中の東山寺にあることにも何かの縁を感じる。

 かつて備前西大寺の記事でも、金刀比羅宮別当寺の仏像が明治になって西大寺に運ばれたことを紹介したが、明治初年の廃仏毀釈で廃棄された仏像が、別の寺院に運ばれて保存されたという例は、日本全国にあることだろう。

 さて、東山寺の裏山には、奥の院がある。東山寺駐車場前の道が、奥の院へと至る道である。

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奥の院への道

 この道を徒歩で登って行くと、獣除けの柵が見えてくる。

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奥の院への参道

 柵の扉を開けて、山道を登って行く。すると、廃棄された軽トラが見えてくる。軽トラの手前に、右に入る道がある。

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廃棄された軽トラと奥の院への分岐路

 この道を右に入ってしばらく行くと、石段が見えてくる。石段の上が奥の院である。

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石段

 奥の院と言っても、立派な建物があるわけではない。小さな石の祠があって、その背後に数多くの巨石が積み重なっている。

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石の祠

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巨石群

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 以前、舟木石上神社の記事でも紹介したが、淡路は巨石信仰の形跡が多数ある場所である。

 これらの巨石も、太古から信仰されていたのだろう。弘法大師が東山寺を開いた時も、この巨石を目にしたに違いない。

 巨石信仰は、縄文時代からあるものとされている。

 古代の巨石信仰から、弘法大師空海の寺院開創、幕末の佐伯心随尼の寺院復興、石清水八幡宮別当寺の仏像が運ばれてきたことまで。これらが一本の信仰の線となって、太古から現代まで続いているように感じた。