日本・モンゴル民族博物館 その3

 長年に渡る戦闘の末に、1206年にモンゴル高原を統一し、全モンゴルの王となったチンギス・ハーンは、千人の兵士が所属する千人隊という騎馬軍団を編成し、その下に百人隊、その下に十人隊と、10進法に基づいて部隊を編成した。そして隊ごとに優秀な指揮官を任命した。

モンゴル軍の兵士と隊旗

 モンゴルの兵士は、幼いころから乗馬を学び、狩猟のために馬に乗りながら弓矢を使った。子供のころからやっていた狩猟が即ち戦闘訓練のようなものであった。

 また、モンゴルは遊牧民である。住居も財産である羊も移動できる。羊がいれば、乳やバター、羊肉といった食料はその場で手に入る。

 その羊の食料になる草は、草原が続く限りなくなることがない。

 遊牧生活は、移動しながら自給自足できる生活様式なのである。

モンゴル刀(内モンゴル自治区出土 13世紀)

 モンゴル軍では、編成された千人隊の兵士に従って、その家族や家畜たちも移動した。

 今のウクライナの戦争を見ても分かるように、戦争で重要なのは補給であり、兵士にとって辛いのは自分たちの家族や故郷から離れて戦うことである。

 モンゴル軍は、兵士の家族と住居と、財産であり食料となる家畜を部隊に帯同させることにより、部隊の自給自足を可能にし、兵士の士気の低下を防いだ。

鉄製鏃(モンゴル国出土 12~13世紀)

 また、モンゴルには馬が豊富にいたため、1人の兵士が3~4頭の馬を持ち、交替させながら乗ることで、馬の消耗を防ぐことが出来た。そのため、モンゴルは世界最高の機動力を持った軍団を編成することが出来た。

 こうして見ると、モンゴル人の普段の乗馬、狩猟、遊牧生活が、そのまま軍事力に直結していたことが分る。

 また、チンギス・ハーンは、徹底して合理的、実力主義的に、有能な人物を指揮官に登用したようだ。

ベルトのバックル等(北京出土 13世紀)

 モンゴル高原を統一したチンギス・ハーンは、手始めに中国北西部(今の寧夏回族自治区のあたり)にあったタングート人の国・西夏を攻撃した。

 草原での騎馬戦が得意なモンゴル軍も、城壁に囲まれた西夏の都市の攻略に手間取ったようだ。完全に屈服させることはできなかった。

 モンゴルの南西にあったウイグル族はすぐさまモンゴルに服属した。

 モンゴル軍は、次に沿海州から満州華北地方を領有する金を攻撃した。ここで中国人から攻城戦の方法を学んだモンゴル軍は、西方での戦闘でそれを活用するようになる。投石器の活用などもその一つである。

モンゴル軍が使用した投石器のレプリカ

 チンギス・ハーンは、モンゴル統一戦で活躍した猛将ジェベをウイグルの西にあった遊牧国家西遼に派遣し、たちどころに征服した。

 西遼の南にあったイスラム教国・ホラズム王国が、モンゴルが派遣した通商使節を虐殺したため、怒ったチンギス・ハーンは、長男ジュチ、次男チャガタイ、三男オゴタイ、四男トゥルイらと共に自ら大部隊を率いてホラズム王国を攻撃した。

 中国での戦争で攻城戦のノウハウを習得していたモンゴル軍は、ホラズムの都市を次々と攻略し、抵抗した町の住民を皆殺しにした。

 ホラズム攻略後、チンギス・ハーンは猛将ジェベ、名将スブタイをロシア南部に威力偵察のために派遣して、当地の公国を攻略していった。

 1227年、チンギス・ハーンは、未だ屈服しない西夏攻略の途上、死去した。

 後継者になったのは、温厚だが堅実な性格の三男オゴタイであった。

チンギス・ハーンとオゴタイ・ハーン

 オゴタイは、1235年に、東は沿海州から西は南ロシアまで広がった広大な領土から、歴戦の将軍達をモンゴル高原に招集してクリルタイ(モンゴルの意思決定会議)を開き、今後の世界征服計画を謀議した。

 そこで決定したとおり、金、西夏を滅亡させ、長江以北の東アジア支配を達成した。

 1236年には、オゴタイは甥のバトゥ(チンギスの長子ジュチの子)を征西の総大将に任命して、猛将ジェベと名将スブタイを付けてヨーロッパ遠征を行った。

 1240年にキエフを攻略したモンゴル軍は、捕虜にしたキエフ公国の王侯貴族を板の下に寝転がらせ、板の上で勝利を祝う酒宴を開き、捕虜たちを圧死させた。

 モンゴル軍は、更に西に進みポーランドに侵攻した。

 全欧は、突然東から現れたこの残虐な軍勢に恐れおののき、ポーランド軍ドイツ騎士団テンプル騎士団などからなるヨーロッパ連合軍を編成して、1241年にポーランドのワールシュタットでモンゴル軍を迎え撃ったが、完膚なきまでに叩きのめされた。

 オゴタイ・ハーンが死去したことにより、モンゴルの遠征軍は撤収したが、あと数年オゴタイが生きていたら、モンゴル軍は大西洋に到達していたことだろう。

モンゴル軍が使用した銅火銃と陶弾

 オゴタイの後継者は、オゴタイの子グユク・ハーンだった。グユクの在位は短かった。

 4代目ハーンは、チンギスの末子トゥルイの子、モンケ・ハーンである。

 モンケの時代に、モンケの弟フラグは10万の兵を率いてペルシャに侵攻してこれを征服し、1258年には更にイスラム帝国アッバース朝)の首都バグダッドを攻略し、イスラム教の神の代理人カリフを処刑した。ここに、ムハンマドが建国したイスラム帝国は滅亡する。

 フラグの軍勢はシリアから小アジアに進出し、東ローマ帝国の首都ビザンチウムに接近した。

モンゴル軍が使用した世界初のロケット兵器

 イスラム教徒たちは、異教徒であるモンゴルに惨憺たる敗北を喫したことに衝撃を受けた。そして一部のイスラム教徒は、自分たちが敗北したのは、神の教えを蔑ろにしていたためだと考え、コーランの教えを忠実に実行することを思いついた。ここに現在に続くイスラム原理主義の思想が誕生した。

 モンケ・ハーンの後を受けた弟のフビライ・ハーンは、朝鮮半島の高麗を攻略し、今の雲南省まで部隊を南下させ、長江以南を支配する南宋を包囲し、中国大陸の完全制圧に王手をかけた。

 文永五年(1268年)、フビライ南宋と交易を続ける日本に使者を派遣し、モンゴル帝国への服従を迫った。南宋を孤立化させようという作戦だった。

モンゴル帝国が日本に送った外交文書

 鎌倉幕府は返事をためらい、書を朝廷に送ったが、朝廷も返事をしないことに決めた。

 1271年、フビライは国号を中国風の元と定めた。

 文永十一年(1274年)、元、高麗連合軍26000人の日本遠征軍は、対馬壱岐を攻略した後、肥前国松浦郡の水軍松浦党と戦闘してこれを蹴散らし、博多湾に上陸した。文永の役である。

 迎え撃つ九州武士団約1万人は、火薬を使った兵器や統率された集団戦法を取るモンゴル軍を相手に苦戦して博多から撤退し、天智天皇のころに唐・新羅連合軍の襲来に備えて築かれた水城まで退却した。博多の町は夜になるとモンゴル軍に焼き払われた。

 だが、夜が明けると、モンゴルの軍船は博多湾から消え去っていた。夜間に博多湾に吹いた暴風雨が、モンゴルの軍船を沈没させたのである。

 1279年に南宋を攻略し、中国全土を征服した元の大軍は、弘安四年(1281年)に再度博多湾に襲来したが、前回の戦闘経験で対処法を学んだ武士たちはよく戦いよく防いだ。

 元軍はまともに上陸できない内に再び海上で暴風雨に襲われて壊滅した。

 フビライは、ついに日本征服を果たすことが出来なかった。フビライの死後、元は徐々に衰退し、最後は明を建国した朱元璋により、モンゴル人はモンゴル高原に追い払われた。

元で流通した大元通宝

 モンゴル帝国がこれほど大規模な帝国に発展し、それを維持できたのは、軍事行動も統治手法も徹底して合理性を追求したからだと思う。

 先ほど述べた、自給自足できて機動力のある部隊編成だけでなく、戦場で有利になる新兵器や、戦闘方法はすぐに取り入れて、戦闘能力の向上を図り続けた。

 また、征服先の異民族の人材でも優秀な者は積極的に登用したし、征服先の統治制度をそのまま取り入れたりした。宗教の自由を認め、むしろ征服先の宗教に改宗したりした。儒教、仏教、イスラム教、キリスト教モンゴル帝国の中で同居していたわけだから、これを認めなければ統治は出来なかった。

 世界帝国を築くには、各地の文化や宗教を差別しない、柔軟で寛大で合理的な制度を持たなければならない。これは現代でも変わらないだろう。

 私は、若いころモンゴル帝国の歴史が好きだったので、つい長い記事になった。

 モンゴル帝国についての記録は、東アジアから中央アジア、中東、ヨーロッパの各地に残っている。これらの史料に目を通すには、当時の世界数十ヶ国語の文献を読みこなす語学力が必要になる。

 そのような語学力を持てる人はいないから、モンゴル帝国の歴史の全貌を把握するのは、誰にも出来ないだろう。

現代のモンゴルの画家が描いたチンギス・ハーンの肖像

 そんな巨大な帝国を地球上に築いたモンゴル人とチンギス・ハーンの一族は、やはり偉大だったと言うべきか。