静思堂

 兵庫県豊岡市出石町中村は、戦前戦中戦後を通して、国会議員として議会政治と自由主義の擁護者として活躍した齋藤隆夫の出身地である。

 齋藤の生家跡に、戦後になって齋藤隆夫の記念館である静思堂が建てられた。

静思堂

 静思堂の名は、大観静思という齋藤隆夫の好んだ言葉から採られた。

 齋藤は明治3年にここで生まれ、東京専門学校(現早稲田大学)に進学後、弁護士の資格を取り、31歳の時に渡米し、イェール大学法科大学院に入学した。

 アメリカから帰国後の明治45年、齋藤は42歳で地元出石から衆議院議員に立候補して当選した。齋藤は以後当選13回を重ねた。

齋藤隆夫の胸像

 議員となった齋藤は、普通選挙法の実現に尽力した。

 大日本帝国憲法では、衆議院貴族院があり、貴族院には皇族や華族から議員が勅撰で選ばれた。

 衆議院議員は選挙で選ばれたが、選挙権は、選挙法により一定以上の納税額を納めている男性にしか与えられていなかった。

静思堂への回廊

 普通選挙とは、納税額に関わらず、ある一定の年齢に達した男子全員が選挙権を得て投票する選挙のことである。当時はまだ女性に選挙権を与えるという考えはなかった。

 普通選挙法の実現までは、国家に納税し、一定の社会的責任を果たした者にしか選挙権を与えない、というのが政府の考えであった。

 そうなると、議員は選挙権のある納税者の方を向いた政治しかしなくなる。

静思堂

 齋藤らの尽力により、大正14年に、満25歳以上の成人男子全員に選挙権を与える普通選挙法が施行された。

 これにより、低所得の労働者を向いた政治が、以前よりは行われるようになった。

 だが齋藤隆夫がその真価を発揮したのは、昭和11年に議会で行った粛軍演説と、昭和15年に行った「支那事変処理に関する演説」である。

齋藤隆夫の肖像

 昭和初期の満州事変、五・一五事件二・二六事件を経て、軍部が政治に容喙することが次第に増えていった。

 明治22年に施行された大日本帝国憲法では、陸海軍の統帥は天皇の専権事項であった。また、陸海軍の編成、常備兵額も天皇が定めることになっていた。

 つまり帝国憲法下では、内閣も議会も、軍の運用や編成や予算に対して口出しが出来なかった。

 五・一五事件は、内閣が諸外国と結んだロンドン海軍軍縮条約に反発した海軍青年将校らが起こした政治的テロ事件である。陸海軍の編成は天皇の専権であるのに、内閣が勝手に軍縮を決めたのは怪しからん、というわけだ。

静思堂のホール

 明治18年太政官制度に代わって内閣制度が出来て、初代内閣総理大臣が誕生したが、大日本帝国憲法には、すでに成立していた内閣制度に関する記載が全くない。帝国憲法には、国務大臣天皇を輔弼すると書いているだけだ。

 現在の日本国憲法では、議会の議決を経て、議会が総理大臣を指名することになっているが、大日本帝国憲法にはそもそも内閣のことも総理大臣のことも書かれていない。

静思堂ホールに掲げられた齋藤隆夫を顕彰する岸信介の書

 それでは帝国憲法下ではどうやって総理が選ばれていたのか。

 明治維新に功績のあった維新の元勲と呼ばれる重鎮たちが総理候補を選んで天皇に上奏し、天皇が総理候補に大命を降下して組閣を命じる、というのが帝国憲法下の内閣制度であった。これでは民意が政治に反映されない。そして民意の後ろ盾のない宰相の立場は、脆弱である。

 議会は、法案を提出したり、内閣が出した法案を審議することは出来たが、憲法上は天皇立法権を協賛する存在であった。今のように議会が予算を審議し、議決する権限もなかった。軍の予算の膨張を議会が止めることも出来なかった。

田中角栄の書

 山縣有朋のような維新の元勲が軍に影響力を持っていた時代は良かったが、元勲達が鬼籍に入ってほとんどいなくなった昭和初期になると、軍は統帥権天皇にしかないという憲法の規定を盾に、内閣の言うことを聞かなくなった。

 軍の大元帥だった天皇が、憲法上唯一軍を上から仕切ることが出来たが、天皇が軍を仕切らなくなれば、軍は誰にも邪魔されずに動けるようになる。

中曽根康弘の書

 こうして、内閣や議会の統制を受けずに独自の意思で動くことが出来る数十万、数百万人の武装集団が動き始めた。言わば、国内に内閣と軍という二つの政府が出来て、それぞれがバラバラの思惑で動くようになったのである。

 これはどう考えても、帝国憲法の構造的欠陥が招来した事態である。

 現代の自衛隊の存在は、憲法上は規定されていないが、自衛隊法上の自衛隊の最高指揮監督権は内閣総理大臣に所属している。現代の総理大臣は、国会の議決を経て指名されるので、間接的に国民に選ばれていることになる。国家の武力は民意の下に統制されるべきだろう。

 齋藤は、昭和11年二・二六事件後、議会において軍の政治への容喙を批判する粛軍演説を行った。

安倍晋三の書

 昭和12年、盧溝橋事件をきっかけに、軍は中国大陸に続々と部隊を増派し、蒋介石率いる国民党政権との戦争を拡大した。日本政府はこの戦いを戦争と呼ばず、支那事変と呼んだ。

 近衛文麿内閣は、支那事変の不拡大方針を取ったが、軍は内閣の方針に従わずに増援を送り続け戦線を拡大した。内閣には、もはや事態を収拾する力はなく、現状を追認することしか出来なくなった。

 軍は、日貨排斥運動など反日的な傾向を強める中国に対し、これを機会に懲罰を与え、中国を日本の全面的な影響下に置こうとした。蒋介石政権など一発蹴とばせば簡単に倒れると踏んで攻勢を重ねたが、予想外に粘られたので、矛の収めどころが分からなくなった。

 昭和15年には、国家総動員法が成立し、総力戦体制が取られた。

 昭和15年2月2日、齋藤は議会において、政府による支那事変の目的の説明が国民に為されないまま、どんどん戦線が拡大していることを批判する「支那事変処理に関する演説」を行った。

 辞職覚悟の演説であった。

齋藤への懲罰を告げる書簡

 齋藤の演説は、聖戦を冒涜するものとして、軍との連携に傾斜していた政友会等諸派の反発を呼んだ。

 齋藤が所属する民政党も、事態収拾の為に齋藤に離職を勧告した。

 議会は齋藤を懲罰決議に附することとした。昭和15年3月7日、圧倒的多数の議員が齋藤の懲罰に賛成票を投じた。齋藤は議員を除名された。

齋藤が議員を除名になった時の所感

 衆議院議長により、齋藤の演説の新聞記事への掲載の差し止めが図られたが、間に合わずに一部が流出し記事になった。

 一部の国民は齋藤を称賛し、一部の国民は非難した。当時の国民の大多数は、中国大陸で戦う軍を応援していたのである。

 しかし昭和17年衆議院議員の選挙で、齋藤は当選を果たし、議員に復帰した。地元の人たちは、齋藤を誇りに思っていたのだろう。

齋藤隆夫の書

 泥沼の中国大陸の戦いから足を抜けなくなった日本は、国際的な非難を浴びた。欧米諸国による日本包囲網が敷かれた。その後の我が国の命運については、ここに書かずともいいだろう。

 戦後、齋藤は日本進歩党の結成に参加する。日本進歩党は、現在の自由民主党に系譜上つながる政党である。

 齋藤は芦田均内閣、吉田茂内閣で国務大臣を務めた。昭和24年、齋藤は80歳で没した。

 齋藤は、昭和15年の議員除名の際、自分が行ったことの是非については、将来の歴史が評価するだろうという意味の漢詩を書いた。

 静思堂のホールには、戦後の総理経験者等が齋藤を顕彰した書が掲げられている。戦後の政治家には、職を賭して憲政の擁護に回った齋藤の勇気に感じるところがあったのだろう。

 もし齋藤隆夫の演説がなかったなら、歴史は、当時の日本の政治家の中に、日本の現状について疑問を抱いた者が誰一人いなかったという審判を下したことだろう。

 齋藤が言いたかったのは、誰かが勇気を出して声を上げねばならない時には、周囲にどう思われようと、黙っていてはいけない、ということだろう。