豊岡市 亀ヶ城跡 前編

 10月23日に但馬の史跡巡りを行った。

 最初に訪れたのは、兵庫県豊岡市但東町太田にある山城、亀ヶ城跡である。

亀ヶ城跡のある山と駐車場

 豊岡市但東町から京都府京丹後市に抜ける国道482号線を東進し、太田集落に差し掛かると、左手に「但東町指定文化財史跡亀ヶ城跡」と書かれた標柱の建つ砂利の駐車場が見えてくる。

 そこに車を駐車して、駐車場の北東側を見ると、亀ヶ城跡のある低山が見える。山の姿が頭を東に向けた亀に似ていることから、この名がついたようだ。

 この山の標高は、約172メートルである。

 駐車場の北に東西道が通っている。この道を東に暫く行くと、右手(南側)に日限地蔵のお堂が見えてくる。

日限地蔵

 このお堂から、道路を挟んで北側の畑の間に、城跡への登山口がある。

登山口

 獣除けの門扉を開けて、山に入っていくことになる。

 登山口の東隣の畑に、城跡の案内板が立っている。

 源平合戦の際に源氏方について武功を挙げた太田昌明は、鎌倉幕府によって但馬国太田荘の地頭に任じられた。

 太田昌明は、承久の乱でも幕府側につき、更に戦功を挙げ、但馬国守護職を命ぜられた。

 亀ヶ城跡は、この太田氏が築城したとされている。

城の縄張り図

 亀ヶ城跡は、私が今まで訪れた山城の中で、最も印象的だった鳥取県八頭郡八頭町の鷹山城跡に匹敵する、雄大な遺構を持った城跡であった。

 これが、鎌倉時代の山城の遺構であるとは信じ難い。戦国時代になって、本格的に整備された山城ではないか。

 上の写真の縄張り図のように、城にはⅠ~Ⅶまでの、7つの曲輪があり、ⅠとⅡの曲輪の間に大きな堀切がある。その堀切を境にして、城は東と西に分かれている。

 以後は、上の縄張り図を基に説明していきたい。

 登山口から進むと、曲輪ⅥとⅦに挟まれた盆地のようなところに出る。何段にも築かれた大小の曲輪に囲まれたような場所だ。

曲輪Ⅵ北西の曲輪群

 私は先ずこの盆地から、曲輪Ⅶ東側の斜面に噛り付いた。攻城の開始である。

曲輪Ⅶ東側の切岸

 この斜面を登っていくと、やや広い曲輪Ⅶに出る。

曲輪Ⅶ

 曲輪Ⅶの北側に進むと、小さな曲輪が階段状に連なっている。

階段状に連なる曲輪

 この階段状の曲輪に登って下を見下ろすと、小さな曲輪が連続しているのが分る。

階段状に連なる曲輪

 階段状の曲輪を二段ほど登ると、北側に切岸が聳え立っているが、傾斜が急過ぎて登ることが出来なかった。

 そこで、縄張り図でいう曲輪Ⅵと曲輪Ⅶの間の盆地北側にある、東西に細長い曲輪を通って、曲輪Ⅵの北西側に出た。

東西に細長い曲輪

 曲輪Ⅵの北西側から、曲輪Ⅱに至る道が始まっている。途中左手に土塁を見ながら進む。

曲輪Ⅱに向かう道

左側に土塁のある道

 この道を進み、虎口から曲輪Ⅱに入る。この曲輪は、亀ヶ城跡の主郭の中では最も広い曲輪である。

曲輪Ⅱ

 曲輪Ⅱを北に向いて歩いて行くと、曲輪北側の土塁が見えてくる。

曲輪Ⅱ北側の土塁

 曲輪Ⅱの北西にも土塁がある。その土塁を越えて、曲輪Ⅱ北西側の小さな曲輪に至った。

曲輪Ⅱ北西側の曲輪

 この小さな曲輪から振り返って東を見ると、曲輪Ⅱ北西側の土塁が見える。

曲輪Ⅱ北西側の土塁

 ここから、驚嘆すべき大堀切と畝上竪堀を見学することになるのだが、これが息を呑むほど雄大な遺構だった。

 次回に紹介する。