昭和23年3月に誕生した芦田内閣は、短命であった。
内閣が発足してすぐの同年4月、戦後の経済復興のために設立された復興金融公庫から有利な融資を受けるため、昭和電工の社長が、政界や金融界、GHQの高官に多額の献金を行った贈収賄事件が発覚した。昭和電工事件である。
昭和電工社長だけでなく、芦田内閣の副総理西尾末広や多くの政治家が逮捕され、芦田自身も別会社から献金を受け取ったとして逮捕された。
昭和23年10月、芦田内閣は事件の道義上の責任を取る形で総辞職した。
翌年1月、芦田は身の潔白を訴えて選挙に臨み、当選する。芦田自身の事件は、死去する前年に無罪判決が出た。
昭和電工事件に関与したことを疑われた芦田だったが、内閣総辞職後も政治家として活動を続けた。昭和27年には、吉田茂ワンマンの自由党に対抗するため、自主憲法制定、再軍備を唱える改進党結成に参加した。改進党は昭和29年に日本民主党に発展する。
芦田は自主憲法期成同盟の世話人になる。日本国憲法の成立に携わった芦田だが、昭和27年の日本独立後、アメリカの影響から離れた自主憲法の制定が必要と考えたようだ。
昭和30年、保守合同のため、自由党と日本民主党が合併し、自由民主党が結成され、芦田も参加する。
自由民主党は、その後約60年以上政権与党の座にある。
昭和34年、芦田の病状が悪化し、重体になる。死の2日前、芦田は昭和天皇から従二位勲一等旭日桐花大綬章を授与される。
受賞の2日後の昭和34年6月20日、芦田は永眠する。享年71。
芦田が絶息した時、夫人は芦田がパリで外交官をしていた時に手に入れた置時計の時間を止めたという。
戦前戦中戦後と、激動の時代を外交官、政治家として過ごし、日本国憲法の制定に関与し、総理大臣としては重要法案を成立させ、戦後日本の枠組みを築いた人物の死である。
ところで、芦田均記念館は、芦田の生家跡に建っている。芦田の生家は、平成14年に記念館が建つまで、老人憩いの家として地元で利用されていたようだ。
芦田の生家には、母屋の別棟や蔵があったようだが、これらの建物は破損して撤去された。今では母屋の一部と庭園が残されている。
また生家の側には、芦田均生誕地の碑が建っている。
芦田均記念館を見学して、民主政治というものについて考えた。
国会での政治家の議論や、ワイドショーでの政治の取り上げ方などを見て、政治に嫌気が差している人もいるだろう。
しかし、世の中に完全な人間はいない。当然完全な政治家もいないし、完全な国民もいない。人間は不完全な存在だし、政治家も国民も不完全な存在である。
その不完全な人間同士が、気づかなかった点や失敗した点など、お互いの弱点をさらけ出しながら議論して、妥結点を見出していくのが民主政治の特徴である。
独裁政治の国では、独裁者の人格や、独裁者が語った言葉や思想は完全なものとして崇められる。勿論、完全な人間など世の中にいないから、独裁政治には必ず嘘とごまかしが混ざることになる。
民主政治と独裁政治の違いは、人間が不完全であるという前提で政治をするか、不完全であることを隠蔽して政治をするかにあると思う。
人間の不完全さを認めることが、真の強さであるように思う。