一乗山経王寺 加藤弘之生家

 歴史と学びの小径を東に歩き、出石町下谷にある日蓮宗の寺院、一乗山経王寺を訪れる。

一乗山経王寺(左が鐘楼)

 寺伝によれば、永禄年間(1558~1570年)にこの地に真言宗の寺院、会稽山薬王寺が創建された。

 薬王寺は、江戸時代にこの地を訪れた法音院日道により、日蓮宗の寺院に改宗され、一乗山経王寺に寺号を改めた。

 経王寺の出石藩での寺格は高く、松平氏、仙石氏はここを菩提寺の一つとしていた。仙石氏の位牌は、全て経王寺にあるという。

 山門の前には、漆喰で塗られた二階建ての鐘楼がある。城郭の櫓のような威容である。出石藩は、戦時には、経王寺を砦として使用することを想定していたのだろう。

 今の経王寺の伽藍は、江戸時代後期に再建されたものである。

山門

 山門もお城の大手門のような造りである。寺格の高さが窺われる。

 本堂の脇には、遠くを見据えた日蓮上人の像が建っている。

本堂

日蓮上人像

 日蓮上人は、元寇の前に「立正安国論」を執筆し、他国からの侵逼難(侵略)を予言した。

 そう言えば今日は参議院議員選挙当日であった。一昨日には安倍元総理が銃撃され、殺害された。日蓮上人が、もし今の日本を見たら、何か思うところがあるだろうか。

 さて本堂裏の墓所を過ぎ、山に上がると出石藩主の墓がある。出石藩仙石家4代目藩主の仙石久行の墓である。

仙石久行の墓

 御影石で造られた立派な墓である。久行は天明五年(1785年)に死去したが、墓は風化せず綺麗に残っている。

 さて、経王寺から東に歩くと、出石が生んだ幕末~明治にかけての学者、政治家である加藤弘之の生家がある。

 加藤の生家は、改修を経てはいるが、建物自体は加藤が生まれた時のものである。内部には、加藤弘之に関する資料を展示ししている。

加藤弘之生家

 加藤弘之は、天保七年(1836年)に出石藩士加藤正照の長男として出石に生まれた。幼時藩校弘道館に学び、17歳の時に江戸勤番となった父に従って江戸に行き、佐久間象山の門下生になった。

 その後大木塾で蘭学を習い、万延元年(1860年)、24歳の時に洋書の翻訳を行う蕃書調所の教授手伝いとなり、ドイツ語を学んだ。

加藤弘之の胸像

 ヨーロッパの文献に目を通した加藤は、ヨーロッパの天賦人権説、立憲政体に目を開かれ、文久元年(1861年)、立憲政体を紹介した「鄰艸(となりぐさ)」を執筆した。

 立憲政体とは、皇帝や国王であっても憲法や法律に従わなければならない政体で、ルールに基づいて国を統治する考え方である。現在の民主主義国家は、共和制、君主制の違いがあっても皆立憲政体である。

 明治元年には、開成所大目付になり、「立憲政体略」を執筆する。

 明治2年には、新政府に出仕し、大学大丞になる。

 明治3年には、明治天皇の侍講(天皇への書物の講義役)となり、天賦人権説を紹介する「真政大意」を著した。

明治3年の太政官からの書簡

 天賦人権説とは、人間は生まれながらにして自由で平等であり、幸福を追求する権利を有するという思想である。

 18世紀のフランスの啓蒙思想家ルソーなどが唱え、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言にも採択されている。

 我が国の現憲法第11条から第14条も、この天賦人権説を敷衍したものである。

加藤生家の床の間

 明治6年、加藤弘之は、福沢諭吉森有礼西周らと啓蒙学術団体・明六社を設立する。

 明治7年には、「国体新論」を著す。加藤は「国体新論」の中で、「国家ノ主眼ハ人民ニシテ人民ノ為ニ君主アリ政府アル所以」を説き、「天皇モ人ナリ人民モ人ナレバ唯同一ノ人類中ニ於テ尊卑上下ノ分アルノミ」と書いた。

 明治初年にしては、驚くべき進歩的な考え方である。

加藤生家の一室

文机

 加藤は、「国学者流」が唱えるような、天皇の御心を自身の心にし、人民は只管天皇の御心に従うべきといった考え方を「奴隷」「卑屈心」とした。人民は独立した自由な考え方を持つべきだとし、君主政府は人民の自由を保障すべきだと唱えた。

 一方で民撰議会の設立は時期尚早とした。日本において人民が自ら政治を行うのは、まだ早いと思っていたようだ。

 しかし明治14年、加藤は、海江田信義ら「国学者流」から、「国体新論」などの著作を批判され、天賦人権説を引っ込めてしまった。自ら「真政大意」「国体新論」の絶版届を出し、思想的に転向した。

明治14年東京大学総理の辞令

 加藤は、明治15年に「人権新説」を執筆し、国家同士の生存競争から社会は進化するという社会進化論の立場から天賦人権説を批判した。天賦人権説を引っ込めると、今度は民権派の活動家から猛批判をくらった。

 加藤は明治14年東京大学初代総理となり、明治23年には貴族議員議員となる。明治28年には宮中顧問官、明治39年には枢密顧問官になった。

明治39年の枢密顧問官の辞令

 明治政府の要職にいた加藤は、明治政府の現状を非難するような思想を持ち続けることが出来なかったのだろう。

 在野に下って民権思想家になるよりは、政府に残って要職に就くことを選んだようだ。これは大人の事情だろう。

 しかし、加藤が唱えたような、政府が民の自由と権利を保障するべきという考え方は、明治23年に施行された大日本帝国憲法に取り入れられた。

 加藤弘之は、人生の半ばで自己の思想を変えたが、その初期の思想は、戦後日本の自由な社会の源の一つであると言っていいだろう。

 極端な国粋主義者は、天賦人権説をヨーロッパ由来の思想で日本の国体に合わないと批判するが、そもそも飛鳥時代から明治初期まで続いた律令制度も、唐の政治技術を輸入したものである。

 日本という国の良さは、時代時代で優れた考え方を外国から輸入し、自己流のものにするところである。

 戦後の教育では教えられることがなくなったが、古代日本では天皇が民の幸せの為に政治をしたという伝説がある。

 それが国の理想としてあったため、新しい外国の思想を導入しても、日本の国のあり方はぶれなかったのだろう。