淡路人形浄瑠璃資料館 前編

 事代主神社から南に歩き、南あわじ市市三條にある南あわじ市淡路人形浄瑠璃資料館を訪れた。

淡路人形浄瑠璃資料館

 資料館のある建物は、南あわじ市の中央公民館で、1階には図書館が入っている。2階に資料館がある。

淡路人形浄瑠璃資料館の入口

 淡路人形浄瑠璃の起源は定かではなく、伝説の領域にある。

 16世紀の西宮神社には、雑役奉仕をする者たちの中に傀儡師(くぐつし)集団がいた。

 彼らは諸国を巡りながら西宮神社の御札を配り、人々の前で人形を踊らせて神徳を宣伝した。

 この傀儡師集団を率いたのが、百太夫という人物である。

戎社に祀られた戎神、百太夫、道薫坊

 当時、西宮大明神(戎様)に仕える道薫坊という人物がいた。その道薫坊が亡くなると、暴風雨が続いた。

 西宮神社がこのことを朝廷に報告すると、天皇から、道薫坊をまねた人形を作って、戎様を慰めるよう勅命が下った。

 この時に、道薫坊の人形を作って操ったのが百太夫である。百太夫が道薫坊の人形を操ると、暴風雨は収まり、世の中は平穏になったという。

淡路人形浄瑠璃の舞台

 その後、百太夫は、人形を携えて諸国巡業し、淡路の三條に住み着いた。

 百太夫の息子の引田淡路掾(ひきたあわじのじょう)が人形繰りを継承し、元亀元年(1570年)に宮中で「式三番叟(しきさんばんそう)」を奉納した。

 「式三番叟」は、能楽の演目の一つで、様々な伝統芸能に取り入れられている。

式三番叟で使われる人形

 「式三番叟」は、淡路人形浄瑠璃では、特に重要な演目とされている。千歳、翁、三番叟の三体の人形が登場し、五穀豊穣を言祝ぐ。祝言の舞とされている。

 引田淡路掾は、本邦人形芝居の初祖として、「日本第一冠諸芸衆能」と称せられ、朝廷から従四位下の位を授かった。そして淡路人形芝居の元祖、上村源之丞座の初代座本となった。

上村源之丞座の金看板

 淡路人形芝居は、文禄・慶長年間(1592~1615年)に、琉球から伝来した三味線と、上方で発生した浄瑠璃の詞章を取り入れて、淡路人形浄瑠璃となった。

淡路人形浄瑠璃の舞台

 舞台の上手に、浄瑠璃の詞章を語る太夫と三味線の演奏者がおり、太夫の語りと三味線に合わせて舞台で人形が動く。 

 淡路人形浄瑠璃は、江戸時代には、徳島藩の庇護を受けて発展し、享保・元文年間(1716~1740年)には淡路島内に40座以上の人形座があった。

 淡路の人形座は西日本を中心に全国を巡業し、各地の人形芝居の元祖となった。

 大阪の文楽も、淡路出身の植村文楽軒が始めたものである。

 淡路人形浄瑠璃は、上方の演目を取り入れて上演していたが、上方では既に上演されなくなった演目も、現在に伝承している。

上方では上演されていない「奥州秀衡有鬠壻」鞍馬山の段

 それだけでなく、淡路で台本を増補・改訂したり、淡路で創作された独自の演目を上演したりしている。

 淡路人形の頭部は、「かしら」と呼ばれ、眉が上がる、目を閉じる、左右を睨む、口が開くという動作が出来るようになっている。

淡路人形の「かしら」

 また、手はそれぞれの指が動くようになっている。

「かしら」の裏側

 「かしら」のからくりを動かすバネは、クジラのひげ(エンバ)を薄く削ったものが使われている。

 この「かしら」の下に、肩板がある。肩板の肩の部分にはへちまを載せて丸みを出している。

 肩板の下に布を付け、その下に竹を薄く削った腰輪を付ける。

淡路人形の仕組み

 肩板に綿を詰めた棒衿を付け、その上に衣装を被せる。衣装には綿が入っていて、人間の体のようなふくらみを出せるようにしている。

 上の写真では、腰輪の下を竹の台が支えているが、舞台ではこの竹の台はなく、人が衣装の中に手を入れて人形を操作する。

三人づかいの図

 淡路人形浄瑠璃では、三人づかいと言って、3人が「かしら」と手足を操作する。

「壇浦兜軍記」の阿古屋の人形

傾城阿波鳴門(けいせいあわのなると)のお弓とお鶴

 江戸時代には40座あった淡路の人形座だが、今では南あわじ市福良の淡路人形浄瑠璃座の1座しか残っていない。

 戦後の娯楽の多様化により、淡路人形浄瑠璃は、急速に衰退した。

 だが、戦国時代の西宮神社の神様の嘆きから始まった人形芝居が、現在も続いている

のは、貴重なことに感じる。