民主主義

 昨年私が読んだ本の中で、最も感銘を受けた本は、角川文庫の「民主主義」である。この本は、文部省が中学高校用の教科書として、昭和23~24年にかけて上下2冊を出版したものを、合冊して文庫化したものである。中学高校用の教科書であるため、理解しやすさを第一に書かれている。

 だからといって、簡略なパンフレットのようなものであることを意味しない。

 この書は、民主主義というものを、単なる制度ではなく、「すべての人間を個人として尊厳な価値を持つものとして取り扱おうとする心、それが民主主義の根本精神である。」としている。その精神を発現するためには、民主主義の制度が必要であり、主権者たる国民の努力が必要であると論理的に諄々と説いている。

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角川文庫「民主主義」

 私は以前から、民主主義というものは、多数決で物事を決めていく原理で、決定が遅くなる、衆愚政治に陥るなどの欠点はあるものの、意見がそれぞれ異なる人たちが概ね満足できる妥協点を探るにはこれ以外の方法がない、というように、欠点はあるが「他よりマシ」な制度だと思っていた。

 つまり、民主主義を制度としてしか捉えていなかった。

 若いころは、雑多な現実を超える何か高度な理想があって、世の中はその理想に合わせていくべきだ、という考えを抱きがちである。

 私も若いころは、そんな理想がないものか探し求めていた。そんな理想を自分個人の問題にしているうちはいいが、理想を社会全体に強いるようになると、それは必ず暴力という形を取る。

 アッラーが作った法をそのまま人類社会に施行すべきだというイスラム厳格主義の思想も、皇祖神天照大御神が皇孫に日本の支配を託した天壌無窮の神勅により、天皇が永遠に日本を知ろしめすべきだとする皇国思想も、階級闘争史観に基づいて、革命によって資本家が独占する生産手段を社会化し、虐げられた労働者や農民が社会を支配すべきだとする共産主義の思想も、中身はそれぞれ異なるように見えるが、「人間を超える高い理想があって、人はそれに従うべき」という観点からは共通のものである。場合によっては、その理想の実現のために人に命の供出を求めることがある。人よりも理想を尊重する考えである。

 しかし、理想というものは、自然界には存在しないものである。人間の頭の中に文章として存在しているものに過ぎない。文章が暴力化するというのは、人類という種に特有の現象である。

 かといって、そういった理想を追い求めてはいけない、という考えも、ロマンを求める人間には受け入れがたい。そういう点で、妥協の産物である民主主義に、私は飽き足らないものを感じていた。

 けれども年を取って社会で経験を積んでいったり、自分なりに人間のあるべき姿を考えているうちに、すべての人間の生きている事実は尊重すべきだという考えに傾くようになってきた。

 人間よりも理想を尊重する思想国家、宗教国家や、国民よりも独裁者とその親族を尊重する専制主義国家よりは、全ての人間の尊重を目指す民主国家がいいと思うようになった。

 「民主主義」の始めに、この本が言いたいことが凝縮されて載っている部分がある。長いが引用する。

(略)それでは、民主主義の根本精神はなんであろうか。それは、つまり、人間の尊重ということにほかならない。

 そういうと、人間が自分自身を尊重するのはあたりまえだ、と答える者があるかも知れない。しかし、これまでの日本では、どれだけ多くの人々が自分自身を卑しめ、ただ権力に屈従して暮らすことに甘んじてきたことであろうか、正しいと信ずることをも主張しえず、(中略)泣き寝入りを続けてきたことであろうか。それは、自分自身を尊重しないというよりも、むしろ、自分自身を奴隷にしてはばからない態度である。人類を不幸におとしいれる専制主義や独裁主義は、こういう民衆の態度をよいことにして、その上にのさばりかえるのである。だから、民主主義を体得するためにはまず学ばなければならないのは、各人が自分自身の人格を尊重し、自らが正しいと考えるところの信念に忠実であるという精神なのである。

 ところで、世の中は、おおぜいの人々の間の持ちつ持たれつの共同生活である。したがって、自分自身を人間として尊重するものは、同じように、すべての他人を人間として尊重しなければならない。民主主義の精神が自分自身を人間として尊重するにあるからといって、それをわがままかってな利己主義ととり違える者があるならば、とんでもないまちがいである。自らの権利を主張する者は、他人の権利を重んじなければならない。自己の自由を主張する者は、他人の自由に深い敬意を払わなければならない。そこから出てくるものは、お互の理解と好意と信頼であり、すべての人間の平等性の承認である。(以下略)

  これを読むと、民主主義が単なる制度ではなく、人々がお互いを尊重しながら国家を運営していく一つの「道」であり、精神の持ち方であることが理解できる。

 孔子が政治の理想とした、「修身斉家治国平天下」(身を修め、家を斉(ととの)え、国を治め、天下を平にする)に近いものであることが分かる。

 とはいえ、心の持ち方だけで民主社会は維持出来ない。ナチスは、選挙で第一党となって政権を取ると、非常事態宣言を出して憲法を停止して、議会ではなく政府が法律を制定できるようにした。法律に従う警察や裁判所も、そうなるとナチス政権に従わざるを得なくなった。

 法律を国民の代表が構成する議会が制定し、司法が政府の意向から独立して動くという制度は、専制主義の防止のために絶対に必要な制度である。

 しかし、制度は箱でしかないことも事実である。その中には、人々がお互いを尊重する精神を入れないといけない。

 ところで民主主義の主役は、「日本国憲法」によれば、主権者たる国民である。我が国の権力者は、国民であって政府ではない。

 本来は主権者である国民が、全員集まって国の行く末を議論しなければならないが、なかなかそんな場所も時間もないので、選挙で代表を選んで、代わりに議論してもらっている。その議員から多くの大臣が選ばれて、内閣が構成されている。政府も議会も、我々の代理人に過ぎない。権力者は我々である。

 権力には責任が伴う。日本国の運営が上手くいかない責任は、最終的に我々国民が負わなければならない。

 国家の運営がうまく行かない時は、実質は内閣が責任を取って総辞職するということになるが、それで終わって国民には責任がないという考えは、主権者の態度ではない。

 「政治のことはよくわからない」と無関心になるのは、主権者として無責任な態度である。「俺は自分から好んで主権者になったのではない」という人もいるかも知れないが、日本に生まれて日本国籍を与えられ、日本国民になった以上は、日本国憲法の制約を受けるのは仕方がないことである。我々は、好むと好まざるとに関わらず、主権者となり、国家の運営に責任を持つ日本国民となる。主権者として日々努力して勉強し、社会情勢を知り、国をどうしていくかを考えなければならない。

 「民主主義」は、国民が努力して自立した人格になり、その上で他人を尊重しなければならないと説いている。自立した人間というのは、自らの責任に於いて動くことが出来る人間を指す。自分が責任を取りたくない国民が増えることが、専制主義を招来するのである。

 思えば、中学の公民の授業では、民主主義の制度は教わったが、主権者たる自分たちに、努力して国を運営していく責任があることは教わらなかった。そうすると、政治は政治家という職業の人が勝手にやってくれている、という甘えの考えに傾きがちである。

 「民主主義」を中学高校の教科書としていた戦後間もない日本は、新日本建設の理想に燃えていた、というべきか。