家族の歴史

 ここ最近、コロナウイルスによる緊急事態宣言の影響もあるが、私事のせいもあって、ブログ記事の更新が出来なかった。

 私事というのは、私の父が亡くなったことである。父の病気と死をきっかけに、私は今まで興味のなかった父の仕事を調べてみた。その結果、社会の最小単位である家族と歴史とのつながりについて考えさせられたので、そのことを書いてみたい。

 私の父は、昭和19年生まれで、大学の工学部を卒業して、昭和43年1月に建設会社に入社し、以後土木技師として働いた。

 父の主な仕事は、トンネルの建設であった。

 父が入社した昭和43年ころは、国鉄山陽新幹線の工事が行われていたころである。新幹線は、まだ東京から大阪までしか開通していなかった。大阪から博多までの工事が進められていた。

 入社してすぐの父は、兵庫県相生市にある国鉄相生駅のすぐ西側の宮山に、山陽新幹線用のトンネルを建設する工事に従事することになった。今、宮山隧道と呼ばれているトンネルがそれである。

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兵庫県相生市 宮山隧道

 父の話では、この宮山は岩盤が強固で、掘削に非常に苦労したという。

 ちなみに、この宮山隧道の工事現場の事務所に、私の母が働きにきていて、そこで私の両親が出会った。

 その後の父は、全国の工事現場を渡り歩き、私たち家族も父について全国を転々とすることになった。

 父が従事した大きな工事現場は、時代順に書くと、広島県三原市山陽新幹線吉行山トンネル工事、新潟県南魚沼郡大和町上越新幹線浦佐隧道工事、新潟県岩船郡山北町国鉄羽越本線八幡山トンネル工事、青森県東津軽郡三厩村青函トンネルに接続する第二浜名トンネル工事、愛媛県川之江市の四国横断自動車道山田井トンネル工事、鳥取県日野郡溝口町の中国横断自動車道根雨原トンネル工事、長野県東筑摩郡麻績村の長野自動車道一本松トンネル工事、福井県大飯郡おおい町舞鶴若狭自動車道父子トンネル工事などである。

 国鉄羽越本線八幡山トンネル工事からは、父は現場責任者となり、工事全体を指揮するようになった。

 八幡山トンネルの現場は、すぐ近くに日本海が見えて、かなたに浮かぶ粟島が眺められる風光明媚な場所だが、ある時2~3日父が現場に泊まり込んで家に帰ってこないことがあった。大人になってから聞いたが、この時は、トンネル掘削中に、山が動揺し、トンネル全体が崩落するおそれが出たそうである。父は部下にトンネル外で待機するよう指示し、工事が続行可能かどうかを最終判断するため、崩れそうなトンネルに1人で入っていった。ところが父が振り返ると、待つように言われていた部下が皆父についてトンネルに入ってきていたそうだ。これには父も思わず目頭が熱くなったという。結果的に工事は続行可能であると分かり、トンネルは完成した。

 父の勤務した会社の百年史を読むと、青森県東津軽郡三厩村の第二浜名トンネル工事では、昭和59年1月の寒風吹き荒ぶ悪天候の中、トンネルの掘削が始まったという。青函トンネル開通に間に合わせるため、猶予はなかった。当時私は小学4年生だったが、家に帰るとゆったりしている父が、まさかそんな仕事をしているとは思いもよらなかった。

 こうして、父の工事現場の経歴を見て、ひとつ気づいたことがあった。昭和時代は、山陽新幹線上越新幹線のトンネルや、青函トンネル、瀬戸大橋と接続する鉄道、道路のトンネルと、現代日本の国土の骨格を成した鉄道、高速道路の工事に関わり、平成に入ってからは、順次整備されていった地方の高速道路のトンネル工事に従事したということである。これは、戦後日本の国土の発展の歴史である。

 父の転勤に従って、家族も引っ越したが、その場所その場所に様々な思い出がある。

 父の仕事を調べて、そんな私たち家族の小さな歴史と、日本の国土発展の歴史がリンクしていることに気づいた。

 どんな家族にも、かけがえのない忘れられない思い出があると思う。私は以前当ブログで、人が集まれば歴史が生まれると書いたが、社会の最小単位である家族の中にも当然歴史はある。世の中のほとんどの人は、家族に所属し、家族の歴史を経験したことがある筈である。

 そしてどんな家族の歴史も、必ず外の世界の大きな波をかぶり、その影響を受けている。そんな家族が集合して、私たちの社会が構成され、歴史が織り成されている。そう思えば、歴史は尊いものである。

 父の死を機に、そんなことを考えさせられた。そして家族を守り続けた父のことを考えた。

 ところで父は末期がんで、しばらく病院に入院していたが、人生の最後を自宅で迎えることを強く希望した。退院の日、父は介護タクシーを呼ぶことを拒否し、私の車で自宅に帰ることを望んだ。私たち家族は、看護師から、最悪の場合、病院から自宅に帰る途中に車内で絶命する可能性があると告げられた。

 歩くこともままならなくなった父を、スイフトスポーツの倒した助手席に寝かせ、実家に戻った。父との最後の思い出があるZC33Sスイフトスポーツは、図らずも私にとって捨てられない車になってしまった。

 父は若いころから車が好きで、働いていたころは、週末になれば、単身赴任先から数百キロの道のりを車に乗って帰って来た。

 長い道のりを運転して自宅に戻り、くつろいで酒を飲んでいる時の父は、いつも機嫌が良かった。

 スイフトスポーツを買ったとき、車好きの父に見せに行った。いつか父と2人でどこかへドライブ旅行に出掛けたいと思っていたが、その望みは叶わなくなってしまった。

 父の死後、父が乗っていた車を廃車にするため、車内を掃除していると、父が約30年前から使っていたドライビンググローブが出てきた。

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 父とのドライブは出来なくなったが、これからせめて父の形見のドライビンググローブをつけて、スイフトスポーツを走らせていきたいと思う。