酒米の生育には、昼夜の寒暖差が大きい、内陸性の気候が適している。地形的には風通しがよい、丘陵地の山麓が最適で、粘質土壌の凝灰岩の地質がいいとされている。北播磨は、この条件に合致する。
明治45年(1912年)に、山田穂が最初の酒米奨励品種として指定された。大正12年(1923年)に、山田穂と他品種を人工的に交配させて出来たのが、山田錦である。山田錦は、酒米の代表的な品種として、多可郡多可町や三木市吉川町などで栽培されている。
三木市吉川町長谷には、酒米生産者と酒造業者の結びつきを記した酒造米記念碑が建っている。
私はお酒をあまり飲まないが、上等の日本酒は本当に旨いと思う。世の中に酒米生産者や酒造業者に感謝する人は多いことだろう。
三木市吉川町法光寺にあるのが、真言宗の寺院である、湯川山法光寺である。
法光寺は、白雉二年(651年)に法道仙人が開基したと伝えられる。ご本尊は阿弥陀如来坐像である。
弘安八年(1285年)には、法光寺が吉河上庄の別当職を命ぜられ、在地の中心政庁となった。
法光寺は、修験、念仏、南朝、万里小路家との関係を示す古文書を有する。
天正三木合戦で一度焼失したとも伝えられる。
今に伝わる建物は、江戸期の再建だろう。
鐘楼にかかる銅鐘は、慶長六年(1601年)12月2日に奉鋳されたもので、三木市指定文化財となっている。
当時の鋳物師集団「姫路野里の鋳物師」の特徴が見られるという。藤原政家、平末次という製作者二名の記銘がある。
本堂の創建年次は分からないが、なかなか堂々とした立派な建物である。
境内にある石造五輪塔は、砂岩製で、様式から室町時代初期のものとされる。兵庫県指定文化財である。
法光寺には、兵庫県指定文化財の五輪泥塔がある。粘土板を五輪塔の形に抜いて、表に梵字、裏に「阿弥陀八万四千」という文字が刻まれている。五輪泥塔は、現在は三木市立みき歴史資料館で展示されている。
法光寺のすぐ近くにある兵庫県立吉川高等学校の敷地は、かつて土豪渡瀬小次郎好光が居城としていた渡瀬城跡である。
今は城の遺構は何も残っていない。
渡瀬氏は、三木合戦に際し、三木城主別所氏側についた。そのため渡瀬城も、秀吉に攻め落とされ、廃城となった。
また、法光寺に隣接する湯谷地区では、毎年8月13日に、地区の阿弥陀堂などで念仏太鼓という行事が行われている。
鐘や太鼓を鳴らしながら、念仏を唱えるという。
起源は不明であるが、近世初頭にさかのぼるという。
三木市の代表的な史跡は、ほとんどが別所氏と織田軍との争いである三木合戦に関連している。
以前も書いたが、秀吉率いる織田軍の到来は、播州にとって、在来の支配構造をリセットする出来事であった。秀吉は、別所氏についた寺社勢力をことごとく攻撃し、焼き払った。
それでも現代の播磨の人の大半は、かつて秀吉が播州一円で合戦に明け暮れていたことを知らない。私も史跡巡りを始めるまで、播州にこれほど多くの秀吉の足跡があるとは思ってもみなかった。
全てを風化させる時の力は大きなものである。