兵庫県三木市志染町大谷にあるのが、本山修験宗の寺院の伽耶院である。
孝徳天皇の勅願により、法道仙人が大化元年(645年)に開基したと伝えられる。伝説では、法道仙人が、山中の清水から毘沙門天像を得たのがきっかけという。
古くは大谷山大谿寺東一坊といった。天和元年(1681年)に後西天皇の勅により、伽耶院と改称している。
伽耶院の名称は、インドの仏陀伽耶(ブッダガヤ)に由来するという。
仁王門は、大正時代の再建である。内部の金剛力士像は、行基菩薩の作と伝えられるが、天正三木合戦の際に頭部や腕が焼けてしまった。
仁王門の華頭窓だけが、先の建物の遺物であるとされる。
仁王門を潜ると、見事な石垣を組んだ伽耶院の全貌が見えてくる。伽耶院の石垣は、平成7年の阪神淡路大震災で崩れてしまい、組み直されている。
伽耶院は、中世には聖護院末の修験寺院として活動し、兵庫県佐用郡佐用町の瑠璃寺と並んで、播磨国修験二カ寺山伏頭と呼ばれた。全盛時には、七堂伽藍を備え、130坊に及ぶ塔頭があったという。
伽耶院は、別所氏の祈願所だったが、天正三木合戦により打撃を受け、慶長十四年(1609年)の大火によって全山焼失した。
今の建物は、その後に再建されたものである。
境内の東側には、中門がある。
中門は、慶安四年(1651年)の建築である。三木市指定文化財となっている。内部に安置されている二天像には、慶安の墨書がある。
中門を潜って目に入るのは、多宝塔である。私が史跡巡りで訪れた5つ目の多宝塔である。
多宝塔は、正保四年(1647年)に、明石藩主小笠原忠真の寄進によって建てられた。内部には、弥勒菩薩を安置している。
彩色された蟇股の彫刻と連子窓が鮮やかで美しい。多宝塔は国指定重要文化財である。
多宝塔の右側には、臼稲荷がある。
昔のこの地方の人々は、田の水を溜めるため、水の出口を古い石臼で塞いでいた。旱魃が村を襲った時、白衣を着た老人に化けた狐が、水の出口に置いてあった石臼を取り除き、水が均等に各田に行き渡るようにした。
それを見て恥じた村人は、石臼をお稲荷様に奉納したという。石臼の上にお稲荷様の祠が建っている。
多宝塔の奥には、国指定重要文化財の三坂社がある。
慶長十五年(1610年)の建立と伝えられる。
三坂社には、土地の鎮守の神である三坂大明神を祀っている。三坂社は、三間社流造こけら葺きの建物で、江戸時代初期の様式を色濃く残しているらしい。
さて、法道仙人が清水の中から見出したという毘沙門天を祀る本堂も、慶長十五年(1610年)の建築で、国指定重要文化財である。
本堂は、方五間の建物で、南側には蔀戸が備え付けられている。内陣と外陣を格子戸と欄間で分けた、典型的な密教寺院の形式である。
内陣内部の宮殿は、唐破風の屋根を有し、極彩色を施された華麗なものである。宮殿内に安置されている国指定重要文化財の木造毘沙門天立像は、平安時代の作であるらしい。どうやら法道仙人が見つけたものではないようだ。
本堂の西側にある開山堂には、開山の祖、法道仙人を祀っている。
開山堂は、丹後峰山藩主の京極高供が明暦二年(1658年)に寄進したものである。
壁面に極彩色の飛天を描き、長押天井周り及び宮殿には入念な彩色文様を施しているそうだ。内部を拝観できないのが残念である。開山堂は、兵庫県指定重要文化財である。
行者堂は、土佐藩主山内忠義の寄進により、寛永七年(1631年)に建てられた。三木市指定文化財である。何の飾り気もない建物である。内部には護摩壇があり、役小角である神変大菩薩を祀っている。
採燈大護摩は、不動明王の智火で、煩悩を焼き尽くす儀式である。毎年体育の日に、近畿一円から集まった天台系の修験行者約200名によって執り行われる。
日本独特の信仰形態である修験道には、非常な興味を覚える。心を無にして研ぎ澄まし、山に登って清澄な空気を吸い、経を唱え、護摩を焚いて煩悩を焼き尽くす。自我を滅して残るものは、ただ山、ひたすら山なのであろう。
修験道は、日本の山々と人が一体となった信仰の形だろう。