岡山市東区上阿知にあるのが、岡山市指定史跡である岡山市孤児院発祥地である。
岡山市孤児院発祥地には、「永懐斯人」と記された石碑が建っている。
今この石碑の建っている場所には、かつて地元の漢学者・産科医である太田杏三の診療所があった。
この太田杏三診療所に居住し、代診医として診察に当たっていたのが、石井十次である。
石井十次は、慶応元年(1865年)に日向国で生まれた。明治15年に岡山県甲種医学校(現岡山大学医学部)に入学して医学を学んだ。
石井は、太田杏三の私塾でも医学を学んだが、その縁で、明治20年にこの地にあった太田杏三診療所に代診医として迎えられ、妻と移り住んだ。
石井が診療所に移り住んだ明治20年4月、診療所の西隣にある大師堂に、備後から来たお遍路の一行が泊まり込んだ。2人の子供を連れた寡婦であった。
石井十次は、貧窮して途方に暮れていたこの一行を見るに見かね、男子一人を引き取った。このことが、石井の貧窮児や孤児に対する救済事業の第一歩となる。
石井は、岡山市門田屋敷の三友寺に孤児教育会(岡山孤児院)を創設する。明治30年には、院内に岡山孤児尋常高等小学校を建てる。
そして全国規模で孤児収容を行い、最盛時には、約1200名の孤児を収容した。
大師堂の三和土は、昔と変わらぬ姿をしている。明治20年4月に、ここで石井十次と寡婦一行の出会いがあったわけだ。
人の生涯や社会に影響を与える出来事は、人間同士のふとした偶然の出逢いから始まることがある。
宮崎から岡山に出てきて医師になった石井と、備後から出てきた困窮した寡婦と子供の人生が、この大師堂という一点で交錯したことで、新たな出来事が始まったというのは、人間社会の不思議さを現わしている。
ここから南に行き、岡山市東区西大寺一宮の安仁(あに)神社に至る。
安仁神社は、「延喜式」神名帳で備前国の神社として唯一名神大社に列せられている。大日本帝国時代の社格制度では、国幣中社であった。
祭神は、五瀬命(いつせのみこと)、稲氷命(いなひのみこと)、御毛沼命(みけぬのみこと)である。
この三柱の神は、初代神武天皇の兄三人である。
「古事記」「日本書紀」に書かれている、いわゆる神武東征説話の中で、日向を発した神武天皇一行は、途中吉備国に立ち寄り、三年間軍兵を整えた。
安仁神社のある場所が、その伝説と関係があるかは分からない。
五瀬命は、この後、血沼海(ちぬのうみ、今の大阪湾)から河内に上陸して大和に向かう途上の戦いで負傷し、それが原因で紀州で薨去し、葬られた。
今の安仁神社の社殿は、宝永二年(1705年)に岡山藩主池田綱政が改築したものである。
参道にある水盤にも「宝永二乙酉歳九月三日」と彫られている。
社殿は、銅板葺きの簡素な建物である。
安仁神社の裏手には山がある。この裏山からは、袈裟襷文銅鐸が出土している。岡山県指定重要文化財となっている。
備前の社寺は、岡山藩が再建したものが多い。岡山の文化財の保護に岡山藩が果たした役割は大きい。
ここから北に行く。岡山市東区邑久郷にある紅岸寺跡に赴く。
紅岸寺は、邑久郷城の出城跡に宇喜多氏が建てた真言宗の菩提寺であったと伝えられる。しかし、城郭の遺構は認められず、宇喜多氏の何らかの居館があった場所だったと思われる。
宇喜多能家は、紅岸寺に自己の肖像画を奉納した。能家の子忠家も肖像画を奉納している。
紅岸寺は、江戸時代に入って、岡山藩主池田光政による寺社整理によって、廃寺となった。二人の画像は、土地の長者納屋七郎右衛門忠行が預かり、保管された。
両画像は、現在は岡山県立博物館が保管している。
宇喜多能家画は、岡山県指定重要文化財に、宇喜多忠家画は、岡山市指定重要文化財となっている。
宇喜多能家像は、戦国の世の武家の精悍な風姿を伝える画である。
紅岸寺跡には、祠や石塔がある。石塔は、おそらく紅岸寺があったころのものだろう。
宇喜多家縁故の者や家臣たちを弔うための石塔ではなかったか。
神武東征説話から戦国時代の宇喜多家の菩提寺、江戸時代の池田家による寺社再建と整理、明治時代の孤児院設立と、古代から近代までの岡山の歴史を辿った。今回紹介した地域は、半径10キロメートル以内に収まっている。
狭い範囲の史跡巡りでも、選り好みをせず丹念に歩けば、古代から近代までの歴史に触れることが出来る。