三木城跡 細川庄

 三木市上の丸町一帯が、国指定史跡の三木城跡である。今まで紹介した、雲龍寺や三木市立みき歴史資料館、三木市立金物資料館も、三木城跡に含まれる。

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三木城跡の見取図

 三木城は、15世紀後半に別所則治により築城された。当時は、東播磨随一の要害であったらしい。

 三木城は、天文七~八年(1538~1539年)の尼子晴久による攻撃や、天文二十三年(1554年)の三好氏による攻撃にも耐えた。

 天正六~八年(1578~1580年)に、秀吉の兵糧攻めにあい、城主別所長治が自刃して城を明け渡したことは、今まで何度も書いてきた。

 三木城本丸跡に立つ説明板には、秀吉軍に包囲された三木城の図があるが、蟻も漏らさぬ包囲網である。

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秀吉軍による三木城包囲網

 落城後の三木城は、秀吉の家臣の杉原氏や中川氏が城主となった。

 慶長五年(1600年)には、姫路藩主となった池田輝政の家臣伊木忠次が入城した。

 元和二年(1616年)には、明石藩小笠原氏の所領に編入され、元和三年(1617年)に一国一城令により廃城となった。

 この時、三木城の資材は、明石城の建築部材に使用されたという。

 城跡の最も高い丘に、別所長治の辞世の歌を刻んだ石碑が建っている。その横に、別所長治公の石像が立つ。 

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本丸跡

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別所長治公像

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別所長治の辞世の碑

 廃城後、三木城の資材が明石城に運ばれたことから、城の遺構を示すものはほとんど残っていない。

 ところどころに、かつて石垣に使われていたと思しき石が転がっている。

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城に残る石

 また、本丸跡からは、三木市街を一望することが出来る。かつての城主が眺めた景色も、これに近いものだったろう。

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本丸跡から見下ろす三木市

 城跡の北側には、最近になって築かれたと思われる城壁をイメージした塀が続いている。

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城跡北側の塀

 城の遺構として唯一残るのは、井戸である。口径3.6メートル、深さ25メートルの井戸で、石を投げこむとカンカンと音が鳴ることから、カンカン井戸と呼ばれている。

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カンカン井戸

 この井戸の中から見つかった別所氏愛用の鐙は、現在雲龍寺で大切に保存されている。

 さて、三木市街から北に車を走らせると、かつて冷泉家の荘園の細川庄があった三木市細川町に入る。

 平安後期の歌人藤原俊成が「千載集」を編纂した功績により朝廷から賜った細川庄は、娘の九条尼、その弟の藤原定家、その子の藤原為家と代々相続された。

 為家の子の二条為氏冷泉為相の異母兄弟の間で細川庄の相続争いが起こり、正和二年(1313年)、為相の勝訴で終わった。

 室町時代中期に、冷泉家は上冷泉家と下冷泉家の二つに分裂する。

 享徳三年(1454年)、細川庄の知行は、下冷泉家の政為に安堵され、依藤豊後守が代官として赴任した。

 応仁の乱が始まると、下冷泉家当主は京の戦火を逃れ、細川庄に住み着くようになった。

 天正六年(1578年)、三木合戦が始まると、秀吉側についた冷泉為純、為勝父子は別所長治により滅ぼされた。

 加東市栄枝の県道沿いには、別所長治に殺害された冷泉為勝と依藤太郎左衛門の墓が建っている。

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冷泉為勝と依藤太郎左衛門の墓

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冷泉為勝の墓

 墓石の背面に彫られた碑文を読むと、今の墓石は明治17年に建てられたものらしい。

 貴族の末裔が地方の荘園に住み着いて領主となり、地元の戦国武将に滅ぼされるという例は、他に土佐の一条氏の例などがあるが、いかにも時代に血統が翻弄されているようでロマンを感じる。

 しかし、下冷泉家の血筋はこれで絶えたわけではない。

 冷泉為純の三男の藤原惺窩は、永禄四年(1561年)に細川庄に生まれた。

 惺窩は、父為純が討ち死にした時は、出家して龍野の景雲寺で禅僧として修業中の身であった。

 為純の死後は、母や弟妹を連れて京の相国寺に入り、仏教と儒学を学んだ。

 秀吉の朝鮮出兵の捕虜となった姜沆の感化を受けて朱子学者となった惺窩は、家康の知遇を得て、江戸に招かれ、家康に治国の道を説いている。しかし家康からの仕官の誘いを断り、京で悠々自適の生活を送った。

 惺窩の門下からは、林羅山や松永尺五などが輩出された。林羅山によって、朱子学徳川幕府の官学として継承された。

 惺窩の子為景は、後光明天皇によって下冷泉家の再興を許され、以後代々朝廷に仕えるようになる。

 細川町桃津の下冷泉家の屋敷があった場所には、現在惺窩の生誕地の碑と石像がある。 

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藤原惺窩生誕地の碑と石像

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 別所氏の祖先の赤松氏は、村上天皇の末裔とされている。下冷泉家も京の宮家である。

 京を出自とする両家が、地方に下って武装勢力となり、相争い、攻防の末に滅んでいく。その祖先からの歴史を知れば、運命の織りなす綾糸がもつれてほぐれる様を見るようで面白い。