船場本徳寺

 かつて亀山本徳寺の記事で書いたが、姫路市の英賀地区には、土塁と堀に囲まれた英賀城という城があり、その中に英賀御堂と呼ばれた浄土真宗一向宗)の寺があった。播磨の浄土真宗布教の中心であった。

 英賀城城主三木氏と一向宗門徒は、毛利氏と組んで、信長に対抗したが、信長麾下の秀吉軍により、天正八年(1580年)に攻撃され、英賀城は陥落した。

 天正十年(1582年)、秀吉は、英賀御堂に亀山の地への移転を命ずる。これが、現在の亀山本徳寺の起源である。

 関ヶ原の合戦後、浄土真宗西本願寺派(現浄土真宗本願寺派)と東本願寺派(現真宗大谷派)に分裂する。分裂には、何かと「大人の事情」があったようだが、ここでは触れない。

 播磨の本徳寺も、東西に分裂することになる。亀山本徳寺は、西本願寺派となり、そこから分裂して出来た船場本徳寺が、東本願寺派に所属することになる。

f:id:sogensyooku:20190803212351j:plain

船場本徳寺

 元和三年(1617年)、東本願寺派門徒は、播磨における東本願寺派の興隆のため、姫路藩主本多忠政から、現在の姫路市地内町に、百間四方の土地と旧藩主池田家菩提寺国清寺の建物を与えられ、翌年船場本徳寺を建立した。

 現代の本堂は、享保三年(1718年)に落成した。

f:id:sogensyooku:20190803212832j:plain

船場本徳寺本堂

f:id:sogensyooku:20190803212929j:plain

 楼門から本堂に至る参道は、本堂と斜めに接続する。

 この本堂、1718年の落成だとしたら、昨年が落成300周年だったことになる。亀山本徳寺本堂に負けず劣らず立派で、いい意味で古びた本堂だ。

f:id:sogensyooku:20190803213237j:plain

本堂正面

f:id:sogensyooku:20190803213330j:plain

 それにしても、どうして古い建物はいつまで見ていても飽きがこないのだろう。

 私が訪れた時は、寺内に人の気配が全くなく、寂として蝉の声だけが広い境内を領していた。

 本堂に上がると、大座敷は開放されていた。

f:id:sogensyooku:20190803213547j:plain

本堂内陣

 内陣の前に座り、心静かに手を合わせた。私は真宗門徒ではないが、浄土真宗の弥陀の本願に縋る、という考え方は、ある意味信仰らしい信仰であると思う。

f:id:sogensyooku:20190803213908j:plain

f:id:sogensyooku:20190803213942j:plain

ご本尊阿弥陀如来

 阿弥陀如来の本願力を頼み(他力本願の語源)、只管南無阿弥陀仏という名号を唱えれば、どんな人間でも往生できるという親鸞の教えは、難しい教典を理解し、高度な修行をしなければ真実に到達できないとする、それまでのエリートのための仏教を、一挙に民衆に親しみやすいものにした。

 浄土真宗の考え方は、絶対他力と言われる。自分の努力は必要ないという考え方である。これだけ聞くと、良くないように思えるかもしれないが、人間如きの努力で往生できるというのは傲慢な考えだから、自分を無にして、ひたすら弥陀の本願を信じ続けることで救われるという、自分を無にして弥陀に縋る信仰を極限まで推し進めたのが浄土真宗なのである。

 それがいいのか悪いのかは別にして、どんな考え方にも欠陥があって、それを補修する新しい考え方がどこかから出てくるという例にはなると思う。

 船場本徳寺は、かつて明治天皇が姫路に行幸された時に、天皇の行在所となっている。その時に天皇がお泊りになった建物が、本堂の裏に残っている。

f:id:sogensyooku:20190803220422j:plain

明治天皇行在所

 また、船場本徳寺は、第一次世界大戦の時に、日本の捕虜となったドイツ軍兵士の収容所としても使われた。

 捕虜となったドイツ兵が、故郷を懐かしんでセメントで造った城のモニュメントが、本堂裏にひっそりと残っている。

f:id:sogensyooku:20190803221249j:plain

ドイツ兵捕虜が造った古城のモニュメント

 おそらく、捕虜のドイツ兵は、姫路城を見て、自分たちの故郷の城を作ってみようと思ったのではないか。

 これも歴史の1ページである。