福知山市治水記念館から南に行くと、広小路通りという広い東西道路に出る。
この広小路通り沿いの福知山市菱屋に、蒸気機関車を展示する福知山鉄道館ポッポランド2号館がある。
1号館の方は、平成30年に閉館になっている。蒸気機関車を展示したこの2号館だけが、今でも公開されている。
ここに展示されている蒸気機関車C58型56号は、昭和14年に川崎車輛株式会社により製造された。
戦時中は東南アジアに送られる予定だったが、終戦で頓挫し、戦後は下関、新見、浜田、鳥取の各機関区で使用された。
昭和36年に福知山機関区に転属となり、昭和45年3月25日に用途廃止になるまで、約9年間舞鶴線や小浜線で活躍した。
昭和43年10月の福井国体では、天皇・皇后両陛下のお召列車の機関車として、東舞鶴ー豊岡間、竹田ー和田山間を牽引走破した。
昭和46年からは、北丹鉄道福知山西駅跡に設置されたSL公園で展示されていたが、平成11年の福知山線開通100周年を記念して、この場所に移された。
私が生まれたころには、日本中の鉄道から蒸気機関車は引退していたが、私より少し上の世代が子供のころは、黒煙を吹きながら走る蒸気機関車が、地方の電化されていない路線を走っていた。
私はかつて通勤に未電化路線のJR姫新線を利用していたことがあるが、私より数年年上の職場の先輩は、「私が子供のころは、夜になると姫新線の方からSLの汽笛の音が聞こえてねえ」と言っていた。
蒸気機関車は、1814年にイギリス人ジョージ・スティーブンソンが開発した。
石炭を燃やしてその熱で水を沸騰させて蒸気を発生させ、その蒸気でシリンダー内のピストンを動かして動力にする。
蒸気機関車の丸い筒のような車体は缶胴という。燃焼室で発生した高温の燃焼ガスが、缶胴の中で水を蒸発させ熱い蒸気を作る。
蒸気は、缶胴上の蒸気ドームに溜められる。その後熱で水分を取られた加熱蒸気がシリンダーに送られ、ピストンを動かして動力を作る。
シリンダーは、機関車の左右の車輪の前方に取り付けられた円筒型の装置である。今回アップで撮影するのを失念した。
運転室の中央に、石炭投入口がある。私の世代は、これを見ると「銀河鉄道999」を思い出す。
実物の蒸気機関車を見ていない我々の世代にとっては、SLと言えば999なのである。
昨日NHKテレビで「ブラタモリ」を見ていたが、大阪梅田周辺が明治初年の鉄道開通まで田んぼだったと言っていた。
梅田どころか、十三も豊中も、その頃は一面の田んぼだった。土地の収用が容易な梅田に駅を作ったところ、駅周辺に大都会が出来た。
今の日本の市街地の元を作ったのは、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて城下町を整備した武将や大名たちだが、次に日本の風景を変えたのは明治時代の鉄道である。
今後、電気自動車や空飛ぶ自動車やネットが日本の風景を変えていくことだろう。
さて、菱屋から南に行った福知山市呉服町に、浄土真宗の寺院、朝耀山明覚寺がある。
明覚寺は、天正十二年(1584年)に、高橋越後守という武士が出家して、天田郡六人部に寺を建てたのが始まりだとされている。
2代目住職の時に、現在地に移転した。
この寺の山門も、福知山城で使われていた城門である。
この門は、内部から外側が見えるように扉の上半分が格子状になった透門(すきもん)という様式である。
浄土真宗は、過去に何度も生まれ変わりながら修行し、ついに覚りを開いた阿弥陀如来が、衆生の成仏を願ったという本願に縋って、ひたすら南無阿弥陀仏の念仏を唱えれば、浄土に行くことが出来るという他力の教えである。
自分が修行して覚りを開いたり、神仏に加護を祈ることは、自力の行いとして、無駄なこととされている。
自己の救済は自分でせずに、徹底して阿弥陀如来に委ねるという絶対他力の教えである。
これはこれで、信仰の究極の形だろう。
そう思って浄土真宗の寺である明覚寺の境内を見ると、他の宗派の寺院にはよくある観音堂や不動堂や薬師堂や大師堂や鎮守の祠といった各種神仏を祀る建物が一切存在しない。
あるのは阿弥陀如来を祀る本堂だけである。
浄土真宗の寺院には、基本的に本堂しかない。これはこれでさっぱりしていて清々しい。
また、シンプルな教えのため、多数の庶民が浄土真宗を信仰した。寺にやってくる多数の門徒を収容するため、浄土真宗の本堂は広壮なものが多い。
姫路の浄土真宗の寺院である亀山本徳寺や船場本徳寺の本堂も、大きなものである。
史跡巡りをする上で、各宗派の考え方を学んでおくと、現地で新しいことを発見した気分になるので面白い。