若桜から南に行けば播磨だが、東に行けば但馬に抜ける。
若桜から但馬に抜ける道は、氷ノ山道若しくは伊勢道と呼ばれてきた。因幡から伊勢神宮に詣でる人たちが、この道を通ったからそう呼ばれたという。
この伊勢道の道標となる石碑が、計4基残されている。
江戸時代にお伊勢詣りをした人々の道標になったものである。
一つ目は、若桜町新町の大師堂の横にある。
少し分かりにくいが、「従是ひだ里ハいせみち、みぎハは里まみち」(是より左は伊勢道、右は播磨道)と刻んである。
まさにここは、因幡から播磨と但馬(伊勢方面)とに分岐する場所だったのだ。
伊勢道を行く前に、一本北側の東西道沿いにある恵日山浄善寺を訪れた。字屋堂羅にある。
浄善寺は、浄土真宗の寺院である。この地方の寺院は、どこも茶色の屋根瓦を載せている。石州瓦である。
石州瓦は、山陰の石見国で産出される、耐寒性、耐塩性に優れた瓦だ。播磨から一山越えただけなのに、この石州瓦の建物を見ると、一挙に山陰の文化圏に来たことを実感する。
山門の陰に高齢の女性が座っていた。本堂の写真を撮っていた私に、「お寺が好きなのですか」と声をかけてきた。私は「ええ。まあ。そうですね。」と答えた。
浄善寺を参拝後、伊勢道を東に行く。しばらく行くと、字長砂の無動山永福寺に至る。
ここは真言宗の寺院であるが、今は無住の寺である。
永福寺は、鳥取の円護寺から移された、金剛界と胎蔵界の両方の大日如来像を所有する。今は、2体の大日如来像は鳥取県指定文化財として、鳥取県立博物館に寄託されている。
狭い参道を登ると、本堂が見えてくる。
本堂の手前には、かつて立派な山門があった。永福寺山門は、今は屋堂羅の若桜町歴史民俗資料館の敷地に移築されている。
永福寺山門は、昭和56年にこの場所に移築復元されたそうだ。若桜町建造物有形文化財となっている。
中の仁王像も、漫画的な造形で面白い。
永福寺御本尊の大日如来像は、今博物館に収蔵されていてお留守である。本堂もどことなく寂しげであった。
ここから更に東に進み、若桜町渕見に至る。渕見神社の側に、2つ目の伊勢道の道標が建っている。
こちらの道標は、割合分かり易く、「右京いせみち、左やまみち」と刻んでいる。
江戸時代には、お伊勢参りが盛んになった。庶民がようやく旅行できるほど豊かになってきたのだ。
この道を、伊勢目指して人々が歩いて行ったわけだ。
ここから更に東に進むと、道が分岐する。丁度分岐するところに、3つ目の道標がある。
この分岐を左に行くと、昔の伊勢道で、棚田の間を道がくねくねと続く。右は現代のドライブウェーで、但馬まで快適なドライブが出来る。
分かりにくいが、「ひだりいせみち、みぎてやまみち」と刻まれている。
ここからでは、兵庫県最高峰の氷ノ山の山容は見えない。
この分岐を左に入ると、舂米(つくよね)の集落に入る。石垣が積まれた棚田があり、まことに長閑な田園風景である。
その棚田の石垣の陰に4つ目の道標がある。
案内の標柱を見ても「右ハいセ三ち」と書いているのは分かるが、「左ハ」以下が判読出来なかった。
思えばここから伊勢など、途方もない遠さで、徒歩で旅行することがない現代人からすれば、伊勢からこんなに離れた場所に道標を置いて何の意味があるのだろうと疑問に思うことだろう。
しかし、徒歩しか交通手段のない江戸時代の庶民からすれば、遠いからこそ、「とりあえず次の道標まで」を目標に歩くことで、モチベーションが維持できたのだろう。
道端に佇む何気ない昔の道標にも、人々の思いが詰まっている。