玄武洞公園 前編 

 酒垂神社の参拝を終えると、円山川沿いを北上した。

 そして豊岡市赤石にある玄武洞公園を訪れた。

玄武洞公園

 玄武洞公園には、玄武岩の柱状節理を見学できる玄武洞、青龍洞、白虎洞、北朱雀洞、南朱雀洞という5つの柱状節理露出ヵ所がある。

 これら玄武岩の柱状節理は、山陰海岸国立公園の一部で、国指定天然記念物である。

 昔は無料で見学できたが、今は公園入口の石垣脇の階段を過ぎたところに料金所があり、大人1名500円で入園できる。

玄武洞全景

 玄武洞公園の岩石は、太古の火山活動で噴出した溶岩が冷えて固まったものである。

 但馬地域では、約300万年前から1万年前まで火山活動が盛んであった。

 玄武洞付近の岩石は、約160万年前の火山噴火で噴出した溶岩が固まったものと言われている。

 地表に出た溶岩が冷えると、収縮していく。収縮の過程で表面に割れ目が出来る。均等に割れ目が出来た場合、六角形の割れ目が出来る。いずれ割れ目が地下にも伸び、柱が集まったように割れ目が入る。これが柱状節理である。

玄武洞

 玄武洞の柱状節理には、更に均等の間隔で柱に水平に割れ目が入っている。

 江戸時代には、ここは採石場であった。ここから石が採掘され、付近集落の石垣や、漬物桶の上に載せる漬物石として利用された。

 玄武洞は、自然に出来た洞窟ではなく、人間が玄武岩を採掘した結果出来た人口の洞窟である。

柱状節理

玄武洞手前の柱状節理

 玄武洞の名称の由来であるが、文化四年(1807年)にこの地を訪れた儒学者柴野栗山(しばのりつざん)が、六角形に割れた柱状節理を見て、亀と蛇が組み合わさった中国の伝説上の妖獣玄武を想起して、玄武洞と名付けた。

 蛇のような長さの柱状節理と、亀甲模様のような六角形の割れ目から連想したようだ。

玄武洞上部

玄武洞の右側の柱状節理

 明治17年、東大教授小藤文次郎は、玄武洞の名称から、同様の岩石を玄武岩命名した。

 大正14年の北但大地震玄武洞は一部崩れ、崩れた石が赤石集落の石垣や護岸工事に利用された。

 玄武洞、青龍洞は、昭和6年に国の天然記念物に指定された。平成19年には日本の地質百選に選ばれた。

 確かに眺めれば眺めるほど、長い時間をかけて形成されたこの景観に圧倒される。人間の存在と人間の歴史の小ささを感じさせられる。

 玄武洞から青龍洞に行く道の途中、玄武洞不動明王の祠があった。

玄武洞不動明王

 不動明王像は、岩石の上に立つ姿で造形されている。岩に彫られることが多い。岩石との関わりが深い明王である。

 迷える衆生に始まりも終わりもない宇宙の真理を憤怒の形相で教え続ける不動明王は、気の遠くなる時間をかけて形成された玄武洞の傍に祀るのに相応しいと感じる。

 自分達の小ささを感じる時間を持つことも、人生の中で必要ではないかと思う。

酒垂神社

 兵庫県立コウノトリの郷公園から東に行き、豊岡市法花寺にある酒垂(さかたる)神社を参拝した。

酒垂神社

 酒樽に音が通じるこの神社の創建は、約1300年前と伝わる。

 当時この地を治めていた郡司、物部韓国連久々比(もののべからくにのむらじくくひ)命が、贄田に酒所を構えて醸酒をした砌、造酒神を祭ったのが発祥とされている。

境内

 祭神は、杜氏の祖神で酒造司の守護神である、酒弥豆男(さけみずお)命、酒弥豆女(さけみずめ)命で、別名大歳大明神と呼ばれている。

拝殿

拝殿に架かる扁額

北但酒販協同組合が販売する清酒神泉の絵馬

 杜氏は、日本酒の醸造を行う職人集団若しくはその統率者を指すが、但馬杜氏の歴史は古く、天正年間(1573~1592年)に遡る。江戸時代には、但馬杜氏は全国に出稼ぎに出ていたという。

 酒造の神様を祀る酒垂神社は、特に但馬の酒造業者や酒販業者から尊崇されている。

 酒垂神社の本殿は、永享十年(1438年)に建築が始められ、文安元年(1444年)に竣工した、歴史ある建物である。

本殿の覆屋

 本殿は、一間社流造、杮葺きであり、今は覆屋に覆われている。

 昭和43年からの解体修理で、「大伴清久 小工十二人」と書かれた棟札が見つかった。

 創建時の棟梁の名前が分かっており、建築細部技法に当時の様式が残されている建築史上の貴重な遺構として、国指定重要文化財に指定されている。

本殿

蟇股

本殿

蟇股の彫刻

 朱色の柱と梁に、白く塗られた壁が鮮やかである。建てられてから間もなく600年になろうとする建物だが、修理を経て未だに美しさを保っている。

 酒垂神社の前には、法花寺会館という建物がある。法花寺集落は、法花寺万歳を伝承する地域である。法花寺会館では、法花寺万歳が演じられる。

 万歳とは、正月に家々の座敷や門前で祝いを述べる祝福芸のことで、今日の漫才の起源と言われている。

法花寺万歳が演じられる法花寺会館

 法花寺の万歳は、江戸時代後期に京都に出奉公していた村民が習い覚えて、帰郷後、農閑期に門付けをしたとされる。

 大東亜戦争中に中断したが、昭和24年に復活した。兵庫県下に唯一残る万歳である。
 役者は烏帽子素襖を着て扇子を持った「太夫」と、大黒頭巾に裁着袴に鼓を持つ「才若」、それに三味線ひきが加わる。2人の役者が巧みな掛けあいをみせた後、くだけた余興を演じるそうだ。

 日本の神様は笑うことがお好きだが、酒垂神社の祭神も、目の前で演じられる万歳をご覧になって、大笑いをされることだろう。

兵庫県立コウノトリの郷公園

 文常寺から東に走り、豊岡市祥雲寺にある兵庫県立コウノトリの郷公園を訪れた。

兵庫県立コウノトリの郷公園

 コウノトリは、現在国の特別天然記念物に指定されている。

 コウノトリは、かつては日本各地に広範囲に生息していたが、明治時代になって乱獲され、個体数が激減した。

 但馬では、出石藩コウノトリを霊鳥として扱っていたため、昭和になっても、若狭と並んで野生個体が残存する地域となっていた。

コウノトリの郷公園案内図

 戦後になって、営巣林が減少したり、水田を荒らす害鳥として駆除されたこともあり、但馬でも野生個体が減少し、絶滅に近づいた。

 昭和40年に、豊岡市野上にコウノトリ保護増殖センターが出来て、コウノトリの野生個体を捕獲して、ゲージの中で繁殖させる試みが始まった。

豊岡市野上のコウノトリ保護増殖センター

 昭和46年に、保護飼育のため、豊岡で2羽の野生個体が捕獲され、日本におけるコウノトリの野生個体は絶滅した。

 その後、保護増殖センターでは、ロシアから譲り受けた個体の飼育下での繁殖に成功した。

 平成11年、コウノトリの飼育、繁殖、野生化を進めるための施設として、兵庫県立コウノトリの郷公園が整備された。

 将来の放鳥、野生化に備え、湿地や無農薬の水田が公園内に造られた。

 公園は、西公開エリアと東公開エリアに分かれており、西公開エリアの公開ケージでは、飼育されているコウノトリを見学することが出来る。

公開ケージのコウノトリ

 平成17年には、この公園で飼育されたコウノトリを野外に放鳥することが初めて行われた。

 平成19年には、放鳥して野生化したコウノトリが自然繁殖したのが確認された。

 今では、野生のコウノトリ約100羽が、公園の周辺に生息している。

 西公開エリアには、直径約2メートルのコウノトリの巣の模型があった。

コウノトリの巣の模型

 コウノトリは、木の枝や草、藁を組み合わせて、樹上にこのような巣を作る。

 西公開エリアの湿地には、野生のコウノトリはいなかったが、湿地の向こうの林を見上げると、樹上に野生のコウノトリの巣が複数見受けられた。

西公開エリアの湿地

樹上のコウノトリの巣

 また、公園内には豊岡市コウノトリ文化館がある。

 コウノトリの生態を説明する展示パネルや、コウノトリの剥製などが展示されている。

豊岡市コウノトリ文化館

コウノトリ文化館内部

コウノトリの剥製

 ここから歩いて5分ほどの場所に、東公開エリアの湿地群がある。

東公開エリアの湿地群

 この湿地には、コウノトリが餌とする水生動物が生息する。たまに野生のコウノトリが湿地に降り立つという。

 私が訪れた時には、コウノトリの姿はなかった。

 湿地の奥には、飼育するコウノトリがいるドーム型ケージがある。

ドーム型ケージ

ドーム型ケージ内のコウノトリ

 ドーム型ケージの中を歩くコウノトリを1羽確認できた。

 私がドーム型ケージを見学していると、ケージの西側の湿地に1羽の野生のコウノトリが降り立つのが見えた。

湿地に降り立った野生のコウノトリ

 コウノトリの神々しい姿を見て、何かの瑞兆のように感じた。やはりコウノトリは霊鳥なのか。

 コウノトリは警戒心が強く、私が近づくと、すぐにそこを離れようとする。

 惜しむらくは私の愛用するRX100の望遠機能が貧弱なことである。最大ズームにしても、上の写真が限界である。

 もう少し近寄ろうとしたら、コウノトリは飛び立ってしまった。コウノトリは、地面から1メートルほどの高さを水平に滑空していった。

 あっという間の出来事で、飛行中のコウノトリをカメラで追うことは出来なかった。

 飛び立った野生のコウノトリは、公園北側の無農薬水田内に建つ祥雲寺巣塔の巣に降り立っていた。

巣塔の上のコウノトリ

 いずれにしても、日本で野生個体が一度は絶滅したコウノトリが、少しづつ復活してきていることは、めでたいことである。

 コウノトリがこの地で元気に生きている姿を見て、私も勇気をもらった気がした。

久々比神社 文常寺

 正福寺の参拝を終え、次なる目的地である豊岡市下宮の久々比(くくひ)神社に赴いた。

久々比神社の社叢

久々比神社の鳥居

 久々比(くくひ)とは、鵠(こう、くぐい)のことで、コウノトリの古名である。

 久々比神社の創建年代は分かっていない。

 「日本書紀」の垂仁天皇二十三年冬十月の条にはこのような説話が書いてある。

 垂仁天皇の皇子であった誉津別(ほむつわけ)皇子は、30歳になるまで言葉を発することがなかった。

神門

 垂仁天皇二十三年冬十月、天皇が皇子を伴って宮殿の前に立つと、上空を一羽の鵠が飛んでいるのが見えた。

 皇子は天皇の前で、「あれは何という鳥ですか」と言葉を発した。

 皇子が言葉を発したことに天皇は喜び、「誰かあの鳥を捕えて献上せよ」と命じた。

 それを聞いた家臣の天湯河板挙(あめのゆかわのたな)が、「私が必ず捕えて献上します」と言い、鵠を追いかけた。

境内のコウノトリ銅像

 天湯河板挙は鵠を追いかけ、出雲か但馬でこれを捕え、天皇に献上した。その日以降、皇子は人並みに話し始めたという。

 久々比神社とこの説話の関連は分からない。

 久々比の地は、古くから鵠すなわちコウノトリが棲む場所であった。地元では、天湯河板挙がコウノトリを捕えたのはこの地であると伝承されている。

 そしていつしかコウノトリが多く棲むこの地に、木の神久々能智命(くくのちのみこと)を祀る久々比神社が建てられたという。

境内

拝殿

 久々比神社の本殿は、発見された墨書から、永正四年(1507年)に再建されたものだと分かっている。

 本殿は、三間社流造、杮葺きで、地元住人小畠勘右衛門の作であるという。

本殿

向拝中央の龍の彫刻

向拝の獅子の彫刻

木鼻の彫刻

向拝側面蟇股の彫刻

本殿側面

本殿側面蟇股の桐の彫刻

 本殿は、元禄十五年(1702年)に向拝と縁回りの修復がなされたそうだが、室町時代中期の古式を残している。確かに木材も古く、いい色合いを出している。

 本殿は国指定重要文化財である。

 また、久々比神社は、古くは胸形(むなかた)大明神と呼ばれていたそうだ。

本殿の胸形大明神の扁額

 ある時に、祭神に変遷があったのかも知れない。

 本殿の向かって右手に丈高いご神木の杉があり、その傍に摂社の八幡神社があった。

ご神木と八幡神社

八幡神社

 八幡神社の本殿は、緑色の屋根の覆屋に覆われている。

 本殿の彫刻は、新しいが立派なものであった。

 私が覆屋の中の本殿を拝見していると、境内で清掃作業をしておられた男性が、「その彫刻いいでしょう。明治時代の作ですよ」と声をかけて下さった。

八幡神社の彫刻

 確かに見とれるほど確りした彫刻だ。

 私は男性に、「そうですね。いいものですね」とお答えした。

 ここにきて、永正と明治の名作を拝ませてもらった気分である。私は充実した気持ちで神社を後にした。

 次に、久々比神社から南下し、北近畿タンゴ鉄道宮津線の高架を潜って、豊岡市鎌田にある真言宗の寺院、文常寺を訪れた。

文常寺

本堂

 文常寺本堂の厨子の中には、秘仏である二体の木造聖観音立像がある。一体は平安時代末期から鎌倉時代にかけての作で、国指定重要文化財となっている。

 もう一体は、ヒノキの一木造りの像で、平安時代の作と伝えられている。兵庫県指定文化財になっている。

内陣の厨子

 秘仏なので、当然拝観できない。

 本堂の蟇股には、コウノトリの彫刻があった。

コウノトリの彫刻

 また何故か本堂前に金毘羅大権現の扁額があった。

本堂前の金毘羅大権現の扁額

 この本堂に金毘羅大権現を祀っているようには見えない。近くの豊岡市野上に金刀比羅神社があるが、そこと何か関連があるのだろうか。よく分からない。

 古くから霊鳥とされるコウノトリは、絶滅の危機に瀕したが、今は国の特別天然記念物として保護され、この豊岡の地で、放鳥されて大空を舞うようになるほど復活してきている。

 久々比神社と文常寺の神仏も、有難くもコウノトリを見守って下さっている気がする。

豊岡市 正福寺

 小田井縣神社の参拝を終え、円山川右岸の豊岡市日撫(ひなど)にある曹洞宗の寺院、正福寺を訪れた。

 ここは、大石内蔵助良雄の妻・りくの遺髪塚と、長女・くうの墓、次男・吉之進の供養塔のある寺である。

大石りく、くう、吉之進の銅像

 寺は低い山の中腹にある。寺に至る坂道の下に駐車場があり、そこに大石りく、くう、吉之進の銅像が建っている。

 りくは、寛文九年(1669年)に豊岡藩家老石束毎公(つねとも)の長女として豊岡の地で出生した。

 貞享四年(1687年)、18歳で赤穂藩家老大石内蔵助良雄に嫁した。元禄元年(1688年)に長男主税、元禄三年(1690年)に長女くう、元禄四年(1691年)に次男吉之進、元禄十二年(1699年)に次女るりを生んだ。

正福寺本堂

 元禄十四年(1701年)三月十四日、江戸城松の廊下で、赤穂藩浅野内匠頭吉良上野介を刀で切りつける刃傷事件が起こった。

 殿中での刃傷沙汰に将軍綱吉は激怒し、浅野内匠頭は即日切腹を命じられ、赤穂藩は取り潰されることになった。事情は分からぬが、吉良上野介へのお咎めはなかった。

 同年五月、赤穂城は明け渡されることになり、大石内蔵助一家は今の赤穂市尾崎に移り、内蔵助はそこで残務処理に当たることになった。

本堂前にある、大石りくを小説に書いた平岩弓枝の石碑

 夫が残務処理に当たる間、りくは四人の子供と一旦豊岡の実家に帰った。

 同年七月、内蔵助が京都山科に居を移すと、りくと子供たちも山科の内蔵助の下に移った。

 内蔵助と赤穂浪士は、当初は浅野家の再興に望みを託していたが、それが不可能と分かると、主君の仇である吉良上野介を討つことに焦点を絞っていくようになった。

俳人京極杞陽の句碑(ここも亦 元禄美挙の 花の趾)

 りくは、山科で三男大三郎を身ごもる。

 元禄十五年(1702年)四月、仇討の挙に加わるため父の下に残ることになった長男主税を置いて、りくと他の子供らは豊岡に戻った。

 同年七月、豊岡でりくは三男大三郎を出産する。

 同年十月、内蔵助とりくは離縁する。吉良上野介への討ち入りの挙で妻子が罪せられないようにするための離縁であった。

 内蔵助と主税は、これで後顧の憂いなく討ち入りに邁進できるようになった。

大石りく遺髪塚への案内

 元禄十五年(1702年)十二月十四日、大石内蔵助が指揮する赤穂義士四十七人は、江戸の吉良上野介邸に討ち入り、主君の仇上野介を討ち取る。上野介の首級を主君の墓前に捧げた後、四十七士は縛につき、翌年二月四日に切腹した。

 豊岡で夫と長男の切腹を知ったりくは、次男吉之進を僧籍に入れ、三男大三郎を養子に出した。

大石りく遺髪塚等

左から大石くうの墓、りくの遺髪塚、吉之進の供養碑

 宝永元年(1704年)九月二十九日、長女くうは15歳の若さで死去し、石束家ゆかりの正福寺に葬られた。

大石くうの墓

くうの墓の裏側の「宝永元申年九月廿九日 大石内蔵助女 俗名空」の銘

 宝永六年(1709年)三月一日、豊岡興国寺の僧侶となっていた吉之進が19歳で死去した。吉之進は興国寺に葬られた。吉之進の墓については先日の記事で紹介した。

 正福寺には、後世になって吉之進の供養塔が建てられた。

吉之進の供養塔

 りくは夫の死後、落飾して香林院と号し、正福寺で夫と長男、赤穂義士の冥福を祈った。

 吉之進が亡くなった宝永六年(1709年)、徳川家宣が6代将軍になり、赤穂義士の遺児に恩赦が行われることになった。

 浅野家の本家である広島藩浅野家が、三男大三郎を家臣として召し抱えることになり、正徳三年(1713年)、りく、るり、大三郎は広島に移った。

大石りくの遺髪塚

 元文元年(1736年)十一月十九日、りくは広島の地で68歳で死去した。広島の国泰寺に葬られた。

 昭和20年8月6日の米軍による広島への原爆投下により、国泰寺とりくの墓は全壊全焼した。

 戦後国泰寺は場所を移して復興したが、今のりくの墓には遺骨は納められていない。

 りくは、生前正福寺の長女くうの墓所に自分の遺髪塚を築くことを望んでいたという。広島に移ってからも、豊岡に眠るくうと吉之進のことを気にかけていたのだろう。

 大石りくは、良妻賢母の鑑のように言われる人物である。

 主家を取り潰された後、主君の仇を討つために苦心した夫を影ながら支えた武士の妻として、また残された子供たちを気丈に育てた母として、後世の日本人に尊敬されている。

 私は、この世界には美しいものが多くあると思っているが、その中でも最も美しいのは、「気丈な母」であると思う。

 男の意地の世界に邁進することになった夫と長男から離れ、夫と死別した後も、残された子を育てたりくは、尊敬すべき気丈な母であると思う。

小田井縣神社

 光行寺の参拝を終え、豊岡市小田井にある小田井縣(おだいあがた)神社を訪れた。

小田井縣神社鳥居

 私が参拝に訪れた日は、七五三詣りの家族連れの参拝客が多く、車がひっきりなしに訪れていた。

 小田井縣神社は、但馬五社の一つである。但馬五社は、但馬を南北に縦断するように位置する、但馬を代表する神社五社のことを指す。

 南から順に挙げると、粟鹿神社、養父神社、出石神社、小田井縣神社、絹巻神社の五社になる。

神門

 初詣にこの五社を続けて参拝すると縁起がいいらしい。私は、小田井縣神社に参拝することで、但馬五社のうち四社までを参拝したことになる。

 小田井縣神社の祭神は、国作大己貴(くにつくりおおなむち)命である。はるか昔に豊岡盆地の水利を治め、農地を開拓したそうだ。

 国造りの神様、大国主命と同一神であろう。

 第10代崇神天皇の御代に、その功績が称えられ、神社が創建されたという。 

拝殿正面

拝殿の扁額

 ところで小田井縣神社の祭祀は、代々県主(あがたぬし)が行ってきたという。

 古代の県(あがた)とは、国の下にあった行政区分で、大和王権支配下についた地方の豪族が、大和王権により県主に任じられた。

 律令制度下では、国の行政長は国司で、郡の行政長は郡司だったが、律令制度が始まるまでは、国の行政長は国造(くにのみやっこ)で、その下の県の行政長は県主だった。

拝殿、幣殿、本殿

 国造、県主の両方共、「古事記」に出てくる役職である。県主は、国造よりも古い役職と言われ、発祥は古墳時代前期にまで遡るとも言われている。

 古墳時代前期には、大和王権の支配の拡大と同時に、前方後円墳が全国に広がっていった。

 ひょっとしたら大和王権は、王権に服属して県主になった豪族に、大王の墓と同じデザインである前方後円墳の使用権を褒美として与えたのかも知れない。

本殿

 律令制度が始まると、国司には中央の貴族が任命された。地元豪族の国造家は、なくなることはなかったが、国司に行政権を奪われ、地元の神社の祭祀のみを担うようになった。

 出雲大社の祭祀は、今でも出雲国造家の千家(せんげ)家が行っているが、これはその名残である。

 小田井縣神社の祭祀も、行政権を失った県主の家が、代々行ったのであろう。

 小田井縣神社には、摂社が三つあるが、その内の一つが柳の宮である。

柳の宮

 柳の宮の祭神は、五男三女神とされている。天照大御神須佐之男命の誓約の際に生まれた、五柱の男神と三柱の女神の総称であろう。

 豊岡盆地の気候風土は、杞柳(きりゅう、コリヤナギ)の栽培に適しており、江戸時代には藩の奨励もあって、柳行李の製作など柳細工が地場産業として盛んになった。

 近代になってから、柳細工だけでなく、カバンの製作も盛んになり、豊岡はカバンの町と呼ばれるようになった。

 昭和10年から、コリヤナギに感謝する柳まつりが、この柳の宮で行われるようになった。

 地元の神社の歴史を調べると、地元の歴史を知ることが出来る。その上で地元の神社を見ると、なぜ地元の人がその神社を大事にしているかが理解できるだろう。

護法山光行寺

 養源寺から東にしばらく歩いた場所にあるのが、浄土真宗の寺院、護法山光行寺である。養源寺と同じく、豊岡市元町にある。

光行寺山門(西側)

 ここは、承久の乱に敗れて但馬に流された雅成親王の子、浄円が入寺した寺である。

 山門を潜って境内に入ると、正面に形のいい銀杏の木があった。

銀杏の木

 ちょうど葉が緑から黄色に移るところで、実に美しい。

 銀杏は、約2億年前から地球上にあった植物界の生きた化石である。生命力が強く、原始的な樹木の特徴を残しているという。

 いい季節にこの銀杏と出会うことが出来た。

 光行寺には、西側と南側に山門がある。

光行寺山門(南側)

山門の扉

 南側の山門の扉は、まるで城郭の扉のようである。江戸時代からあるものだろう。

 本堂には、胎内に鎌倉時代中期の願文を持つ阿弥陀如来像が祀られている。

本堂

本堂向拝の彫刻

蟇股の龍の彫刻

木鼻の彫刻

手挟みの彫刻

 本堂向拝の彫刻群が見事である。浄土真宗の寺院には、本堂が広壮なものが多い。

 庶民的な宗派であるため、本堂に多くの門徒が集まることがあるからだろう。

 本堂前には、親鸞上人の銅像がある。

親鸞上人の銅像

 親鸞は、仏教を一挙に大衆化した人物である。その著作「教行信証」は、現代でもよく読まれている。

 失意の中で亡くなった雅成親王の子・浄円は、光行寺の住職になり、父の菩提を弔ったことだろう。

 先ほどの銀杏の葉が風と共にさらさらと落ちる。浄円が読経をしたころと同じ時間が、現在の境内にも静かに流れているように感じた。