小田井縣神社

 光行寺の参拝を終え、豊岡市小田井にある小田井縣(おだいあがた)神社を訪れた。

小田井縣神社鳥居

 私が参拝に訪れた日は、七五三詣りの家族連れの参拝客が多く、車がひっきりなしに訪れていた。

 小田井縣神社は、但馬五社の一つである。但馬五社は、但馬を南北に縦断するように位置する、但馬を代表する神社五社のことを指す。

 南から順に挙げると、粟鹿神社、養父神社、出石神社、小田井縣神社、絹巻神社の五社になる。

神門

 初詣にこの五社を続けて参拝すると縁起がいいらしい。私は、小田井縣神社に参拝することで、但馬五社のうち四社までを参拝したことになる。

 小田井縣神社の祭神は、国作大己貴(くにつくりおおなむち)命である。はるか昔に豊岡盆地の水利を治め、農地を開拓したそうだ。

 国造りの神様、大国主命と同一神であろう。

 第10代崇神天皇の御代に、その功績が称えられ、神社が創建されたという。 

拝殿正面

拝殿の扁額

 ところで小田井縣神社の祭祀は、代々県主(あがたぬし)が行ってきたという。

 古代の県(あがた)とは、国の下にあった行政区分で、大和王権支配下についた地方の豪族が、大和王権により県主に任じられた。

 律令制度下では、国の行政長は国司で、郡の行政長は郡司だったが、律令制度が始まるまでは、国の行政長は国造(くにのみやっこ)で、その下の県の行政長は県主だった。

拝殿、幣殿、本殿

 国造、県主の両方共、「古事記」に出てくる役職である。県主は、国造よりも古い役職と言われ、発祥は古墳時代前期にまで遡るとも言われている。

 古墳時代前期には、大和王権の支配の拡大と同時に、前方後円墳が全国に広がっていった。

 ひょっとしたら大和王権は、王権に服属して県主になった豪族に、大王の墓と同じデザインである前方後円墳の使用権を褒美として与えたのかも知れない。

本殿

 律令制度が始まると、国司には中央の貴族が任命された。地元豪族の国造家は、なくなることはなかったが、国司に行政権を奪われ、地元の神社の祭祀のみを担うようになった。

 出雲大社の祭祀は、今でも出雲国造家の千家(せんげ)家が行っているが、これはその名残である。

 小田井縣神社の祭祀も、行政権を失った県主の家が、代々行ったのであろう。

 小田井縣神社には、摂社が三つあるが、その内の一つが柳の宮である。

柳の宮

 柳の宮の祭神は、五男三女神とされている。天照大御神須佐之男命の誓約の際に生まれた、五柱の男神と三柱の女神の総称であろう。

 豊岡盆地の気候風土は、杞柳(きりゅう、コリヤナギ)の栽培に適しており、江戸時代には藩の奨励もあって、柳行李の製作など柳細工が地場産業として盛んになった。

 近代になってから、柳細工だけでなく、カバンの製作も盛んになり、豊岡はカバンの町と呼ばれるようになった。

 昭和10年から、コリヤナギに感謝する柳まつりが、この柳の宮で行われるようになった。

 地元の神社の歴史を調べると、地元の歴史を知ることが出来る。その上で地元の神社を見ると、なぜ地元の人がその神社を大事にしているかが理解できるだろう。