由加山蓮台寺 由加神社本宮 その1

 倉敷市児島由加にある由加山は、古くから神仏習合の神様である瑜伽大権現を祀り、厚く信仰されてきた山である。

 天平五年(733年)、行基菩薩がこの地を訪れ、阿弥陀如来薬師如来の二尊を本地仏とする瑜伽大権現を祀ったのが、由加山蓮台寺の始まりである。

由加山参道

 権現とは、仏が権(かり)に神様として現れた姿である。仏教の悟りの世界をすぐには体得できない民衆を別の手段で教化するため、仏が神様の姿になって現れたのが権現である。

 権現には、元々の仏としての姿がある。それが本地仏である。

由加山門前町

瑜伽大権現と刻まれた灯篭

 その後、行基菩薩は、ここに本尊十一面観音菩薩像を祀った。

 また、奈良時代に、修験道の開祖役小角が、呪術をもって民衆を惑わした罪で伊豆に流された際、役小角の5人の弟子が、熊野十二所権現御神体を持って熊野から児島に逃れ、児島を新熊野とした。

 弟子たちは、由加山を熊野那智宮に見立てた。

由加山門前町

 江戸時代には、岡山藩主から尊崇され、岡山藩の祈願所となった。

 江戸時代後期になると、讃岐の金刀比羅宮に祀られる金毘羅大権現と、由加山瑜伽大権現の両参りの参詣者で大いに賑わったという。

 このように、由加山奈良時代から神仏習合の山として崇拝されてきたが、明治政府の神仏分離令によって、修験道は禁教とされ、明治6年には、真言宗の寺院である由加山蓮台寺神道の神を祀る由加神社本宮に分離されてしまった。

三の鳥居

由加神社本宮の建物

 明治政府の出した神仏分離令によって、仏の仮の姿である権現を神社に祀ることは出来なくなった。

 瑜伽大権現を祀っていた本殿は、由加神社本宮として独立し、由加大神、彦狭知命、神直日命、手置帆負命を祀る神社になった。

由加山境内への最後の石段

 本殿が切り離された蓮台寺は、また別に瑜伽大権現を祀った。

 そして戦後になって、GHQが出した神道指令により国家神道が消滅し、神仏分離令の効力が無くなった。

 由加神社本宮には、神職は配置されたままだったが、宗教法人資格は休眠状態になり、蓮台寺の僧侶が由加神社本宮の本殿で祈祷を行うなど、江戸時代以前の神仏習合の姿に戻った。

由加神社本宮の備前焼の鳥居(明治27年製)

備前焼狛犬

 こうして戦後は蓮台寺が一体的に由加山を運営してきたが、平成9年に由加神社の神職たちが由加神社の建物を占拠して独自の宗教活動を再開した。

 今は蓮台寺と由加神社本宮は対立した関係にあるようだ。蓮台寺の駐車場には、由加神社本宮の参拝者は利用しないようにとの注意書きがある。

由加山蓮台寺の案内図

 上の写真は由加山蓮台寺の案内図だが、現在地の辺りで参道が2つに分かれている。右の参道に行けば由加神社本宮に至るが、矢印のある左の参道を登れば蓮台寺総本殿に至る。

 由加神社本宮の直前に、蓮台寺に参拝客を誘導するように矢印をつけた案内図を設置しているのである。

  また、写真の右隅には、蓮台寺の看板の背後にある由加神社本宮の看板が写っている。

 こちらには、大きく「直進」と書いていて、参拝者を由加神社本宮に誘導しようとしている。

 蓮台寺の境内のほぼ真ん中に由加神社本宮があるので、一般の参拝者は、これが別々の宗教法人だとは気が付かないだろう。

 元々はどちらも同じ瑜伽大権現を祀っていたのだから、対立はやめて、神仏習合の昔に戻って欲しいものだ。

 それにしても、聖の中に俗が入ることは免れられないようだ。

 さて私は由加神社本宮から先に参拝した。

由加神社本宮拝殿

拝殿向拝

 由加神社の本殿は、延宝二年(1674年)の建築だが、拝殿がいつの建築かは分からない。

 拝殿は、銅板葺の屋根を持つ入母屋造りの建物である。

入母屋造りの拝殿

 正面に千鳥破風と長大な唐破風の向拝が付いている。

 向拝の蟇股には、日本神話を題材とした彫刻が施されている。

天の岩戸(上)と伊弉諾尊伊弉冉尊(下)の彫刻

素戔嗚尊の八岐大蛇退治

月読尊

 向拝の正面に向かって中央上部には天の岩戸の彫刻が、中央下部には伊弉諾尊伊弉冉尊の彫刻が、向かって右には素戔嗚尊の八岐大蛇退治の彫刻が、向かって左には月読尊の彫刻が施されている。

 向拝側面には、仏教的な天女の彫刻がある。

天女の彫刻

龍の彫刻

    向拝奥の中央には龍の彫刻がある。

 神仏習合の社らしい彫刻群だ。

 拝殿の扁額は、中央のものには「由加宮本宮」、向かって右のものには「大権現」、向かって左のものには「稲荷大明神」と書かれている。

拝殿正面の扁額

 どうやらお稲荷さんも合祀されているようだ。

 今では蓮台寺と由加神社は別の宗教法人だが、当ブログでは、神仏習合由加山の伝統に鑑みて、これを一体のものとして扱おうと思う。

清田八幡神社

 由加山に向かう途中、倉敷市曽原にある清田八幡神社に立ち寄った。

清田八幡神社鳥居

 清田八幡神社は、児島の総鎮守とされ、備前の八幡三古社の一つと言われている。

 社伝によれば、清田八幡神社は、現在地から北の粒江の田槌の浦にあったが、清滝山中を経て、承久元年(1219年)に現在地に移転したそうだ。

 現在の本殿は、寛永十九年(1642年)に児島郡内の17カ村の氏子によって再建されたものだという。

鳥居横の謎の祠

 鳥居の横に、小さな祠があり、その中に石室のようなものを形作った石組があった。一体これは何を祀っているのか。謎の祠である。

 鳥居を潜って石段を上がる。石段を上がったところに、西行法師の石像があった。

西行法師の石像

 西行は、仁平二年(1153年)に清田八幡神社を訪れ、参篭修行をした。

 その後、仁安三年(1168年)に四国への旅をするに際し、若いころ修行した清田八幡神社を再訪した。

 若いころ訪れた時に生えていた松が、年を経て古木となっているのを見て、

むかし見し 松は老木に 成りにけり 我年経たる 程も知られて

と詠った。

 西行が訪れた時は、清田八幡神社はまだ清滝山にあったころだろう。

 西行は漂泊の歌人だが、空間的な漂泊だけでなく、時間的な漂泊も歌っている。

 西行法師の石像のある場所から、更に石段がある。

石段

 石段を上がると神門があり、その先に銅板葺の屋根を持つ拝殿がある。

神門

拝殿

 寛永十九年(1642年)に再建された本殿は、檜皮葺、入母屋造りで、正面に千鳥破風を持っている。向拝は唐破風である。擬宝珠高欄付の縁が巡らされている。

本殿

 桁行三間、梁間二間の風格ある建物である。

 清田八幡神社本殿は、岡山県指定文化財である。

本殿正面

 児島の地は、承久の乱に敗北した後鳥羽上皇の子・頼仁親王が配流された地である。頼仁親王は、児島に来て、清田八幡神社の近くの五流尊瀧院を御座所とした。

 頼仁親王は、写経した「大般若経」百巻を清田八幡神社に奉納したという。

 本殿に向かって左に昭和9年に建てられた御神庫がある。

御神庫

 この御神庫の中に、頼仁親王が奉納した「大般若経」があるのだろうか。

 五流尊瀧院や熊野神社のあるこの一帯は、朝廷の弾圧を恐れて、奈良時代に熊野からこの地に逃れてきた修験者達が第二の熊野として様々な社殿を建てた地である。

 児島がまだ島だった時代は、児島一島は修験者の島だった。清田八幡神社も、そんな時代の息吹を今に伝えるお社である。

種松山西明院

 昨日紹介した乗り出し岩から海に入った佐々木盛綱は、岡山県倉敷市粒江にある真言宗の寺院、種松山西明院の辺りに上陸したという。

 乗り出し岩と西明院の中間地点くらいに、浮洲岩の碑がある。

浮洲岩の跡

 この辺りは、かつては藤戸海峡の浮島で、アマモなどの塩生生物が棲んでいた。そこに浮洲岩という名石があったという。

 ここにあった浮洲岩を、信長は二条御所に錦に包んで献上した。その後秀吉がその石を醍醐寺三宝院の庭園に運び、さらに聚楽第に移したという。

浮洲岩の碑

 その後、岡山藩がこの付近一帯を干拓して農地にしたが、浮洲岩のあったあたりの沼沢地だけはそのまま記念に残したという。

 沼沢地には、小島が築かれ、その上に浮洲岩の碑が建てられた。

 この碑には、正保二年(1643年)の銘がある。岡山藩が建てたものだ。天下の名石があった場所を記念するために建てたものだろう。

 現在も醍醐寺三宝院の庭園には、藤戸岩と呼ばれる名石がある。

 ここから南西に進み、種松山西明院に向かった。

種松山西明院

マスクを着けた弘法大師

 西明院は、種松山の北麓に建つ寺院である。ここは、佐々木盛綱が藤戸海峡を渡って最初に上陸し、先陣を飾った場所とされている。

 合戦後、盛綱は、戦没者などを供養するために、ここに天暦山先陣寺という寺院を建てた。

 その後先陣寺は衰微した。今は西明院の境内にある先陣庵という小さな庵に、その名残があるだけである。

先陣庵

 西明院からは、かつて源氏が布陣した有城山が見える。

西明院から望む有城山

 西明院と有城山の間の平地は、千年前には海だったのだ。

 西明院は、空海平城天皇の御代(806~809年)に訪れて、虚空蔵求聞持法を行うために開創した寺院だと言われている。

 本尊は、一字金輪仏頂尊である。

本堂

本堂内陣

 一字金輪仏頂尊とは、大日如来が三摩地(最高に深い瞑想)に入った時に発した「ボロン」という真言一字を神格化したものである。

 真言密教は、全ては大日如来に帰一するという一神教のような要素もあれば、大日如来が無数の仏や神に分裂するという多神教的な要素も持つ。

 日本の風土の隅々まで溶け込んだ宗教だ。

 西明院は、天保年間(1831~1845年)に、金毘羅大権現を勧請した。

 境内の最高部に金毘羅大権現が祀られている。

金毘羅大権現の鳥居

種松山金毘羅宮

社頭の備前焼狛犬

 江戸時代後期には、讃岐の金毘羅大権現備前瑜伽大権現の「両参り」が流行した。

 この地は、江戸時代に金毘羅詣りをする人々が通過した四国街道に近い。讃岐に渡る前の参詣者に参拝してもらうために金毘羅大権現を勧請したのだろう。

拝殿の天狗の鬼瓦

拝殿の向拝

本殿

蟇股の彫刻

 金毘羅大権現は航海の神様である。私の史跡巡りも、航海に似たところがあると感じる時がある。

 我が航海が無事に進むように、金毘羅大権現に祈った。

 参拝を終えると、「両参り」のもう片方である、瑜伽大権現を祀る由加山蓮台寺と由加神社本宮に向けて出発した。

源平藤戸合戦の古跡

 陣屋町有城から少し西に行くと、笹無山という小さな丘がある。

笹無山

 この小さな丘は、佐々木盛綱に対して、平家が布陣する対岸に渡ることができる浅瀬の存在を教えた漁師の悲劇に関連がある。

 藤戸海峡を挟んだ対岸に布陣する平氏方を攻めあぐねていた源氏方の盛綱は、浜辺で良策がないか思案していた。その時、藤戸の海を自分の庭のように熟知している漁師に出遇った。

 盛綱は、漁師から対岸に渡ることが出来る浅瀬の存在を聞きだした。そして漁師に対して、同行して場所を教えてくれたら褒美を取らせると約束して同行させた。

 漁師は、浅瀬に笹を目印として立てながら進んでいった。盛綱は、浅瀬の場所を知るや、先陣の功を独り占めするため、口封じに漁師を殺害し、海中に沈めた。

 漁師の母親はそれを知って、「佐々木憎けりゃ笹まで憎い」と、この丘の笹を全て抜いてしまったという。

 それからこの丘には笹が生えなくなったそうだ。

笹無山に生えている笹

 しかし、笹無山に近づいてみると、今は一面に笹が生い茂っている。何だか安心した。

 笹無山の西側には、有城山(旧高坪山)という小山がある。佐々木盛綱ら源氏方は、この山麓に布陣していたという。

 有城山の南東麓に、御崎神社という小さな神社がある。

御崎神社

 藤戸合戦のころには、この神社のあたりまで海が迫っていた。

 佐々木盛綱が藤戸海峡に乗り出したのは、この神社の南側からか、神社の西北方にある乗り出し岩からだと言われている。

拝殿

本殿

 御崎神社は、かつて御崎宮(おんぎぐう)と言って、高坪山山頂に祀られていた。祭神は大己貴命吉備津彦命である。

 佐々木盛綱がここに布陣した際、御崎宮に八幡神を合祀し戦勝を祈願した。そのせいか盛綱は合戦で功績を上げることが出来た。盛綱は合戦後に児島の領主になってから、この地に広壮な社殿を建てて御崎宮を遷座させたという。

 御崎神社から約500メートル西に行くと、佐々木盛綱が藤戸海峡に乗り入れたという乗り出し岩がある。

乗り出し岩

 この岩の辺りまで、当時は海だったのだろう。盛綱は、この岩上から乗馬して海に乗り入れていったわけだ。

 乗り出し岩の上には、「佐々木盛綱鎮魂」と刻まれた石柱が建っている。

佐々木盛綱の鎮魂碑

 岩上から、平氏がかつて布陣したあたりを眺めると、結構距離がある。

乗り出し岩から平氏が布陣していた辺りを望む

 上の写真の奥に山々が見えるが、平氏が布陣していたのは、あの山々の山麓である。

 この乗り出し岩からは、浅瀬とは言え、海の中をかなり進まなければならなかった筈だ。

 たった一騎でここから海中に乗り入れた佐々木盛綱の勇気は相当なものである。

 この藤戸合戦で敗れた平氏は、次の屋島の合戦でも敗れ、壇ノ浦の戦いで滅亡した。藤戸合戦から僅か3か月後である。

 1人の人間の智謀と勇気が、歴史の扉を開けることがあるのだ。

陣屋町天城 後編

 海禅寺から南に行くと、日蓮宗の寺院、恵光山正福寺がある。

恵光山正福寺

 この寺の山門は、下津井城の城門を移築したものであるという。

正福寺山門

 正福寺の山門は、意外と小ぶりな山門である。こんな城門を持った下津井城は、ささやかな城だったのだろう。

 正福寺の本堂も庫裏も新しい。境内にあった観音菩薩の石像が印象的だった。

本堂

庫裏

観音菩薩の石像

 山門の脇には、釈迦が誕生してから涅槃に入るまでの、重要な8場面を描いた釈迦八相図の石像があった。

「降魔成道」の石像

 中でも釈迦が様々な困難や誘惑に打ち勝って悟りを開いた場面である、「降魔成道」の場面の石像が面白かった。悟りを開いた釈迦の周囲に、様々な悪魔や怪物がいて、地団太を踏んでいるような図である。

 釈迦が覚者となった瞬間が、仏教が誕生した瞬間である。これが仏教の中で、最も重要な場面だろう。

 正福寺の南側には、真宗大谷派の寺院、静光(じょうこう)寺がある。

静光寺

 静光寺の山門は、天城陣屋の総門を移築したものであるという。

静光寺山門

 静光寺山門は、天城陣屋の建物の中で、現在に唯一残る遺構である。

 どういう経緯で、静光寺が天城陣屋の総門を引き取ったのかは分からない。だが今この門が残っているのは有難いことだ。

 静光寺の本堂の右手には、小さな池があり、美しい蓮の花が咲いていた。

本堂

蓮の花

 7月は蓮のシーズンである。仏教を象徴する蓮の花を見ると、暑気の中にいても気持ちが洗われる気がする。

 この池の奥の本堂裏に、大石内蔵助良雄の母方の祖母の墓がある。土饅頭の上に石が置いているだけのささやかな墓である。

大石良雄の祖母の墓

 池田由成の妻は、団八郎の娘で、慶安三年(1650年)に岡山で卒し、法号を明厳院釈静光禅尼といい、天城静光寺に葬られたという。

 池田由成の六女、熊子は、赤穂藩家老大石良昭に嫁し、万治二年(1659年)に大石内蔵助良雄を生んだ。

 この墓は、池田由成の正妻の墓にしてはいかにも粗末である。しかも夫の由成と別の場所に葬られている。何か事情があったのだろうか。

 天城の町には、岡山県指定重要文化財、史跡となっている日本基督教団天城教会がある。

日本基督教団天城教会

 この教会は、明治23年に建設された木造瓦葺の建物である。

 上の写真は教会の南側から写したものだが、後で調べるとどうやら北側に正面入口があったようだ。敷地に入るのを遠慮してしまって、そこまで確認出来なかった。

 城や陣屋が失われても、その一部が町のどこかに移築されている例は多々ある。

 普段気にしていないだけで、調べてみると案外身近なところにも、そういう遺構は残っていたりする。近世の歴史は、意外なところに伏在しているものだ。

陣屋町天城 前編

 岡山県倉敷市藤戸町天城は、岡山藩家老池田氏が陣屋を置いて治めた陣屋町であった。

 江戸時代には、所領が3万石以下の小藩は、城を持つことが許されず、藩庁として陣屋と呼ばれる建物を建てた。

 上級旗本や大藩の家老も所領に陣屋を置いた。

 岡山藩家老池田由成は、下津井城主だったが、寛永十六年(1639年)に幕府が出した一国一城令により下津井城が廃城となったことから、天城に新たな所領を授かり、陣屋を建てた。これ以降、天城は陣屋町となった。

 由成の祖父は、初代姫路藩池田輝政の兄である。由成の父由之は、後に岡山藩主となった池田光政が、幼少の身で鳥取藩主だったころ、家老として仕えた。由之からすれば光政は、従弟利隆の子である。

 このように天城池田家は、藩主である池田宗家に極めて近い家柄だった。

 天城の陣屋跡は、岡山県立倉敷天城高等学校の北側の丘陵上の、同校のお茶屋グラウンドにある。

天城陣屋跡

お茶屋跡碑

 お茶屋グラウンドは、小高い丘の上にあって、結構広い。かつてはこのグラウンド上に、陣屋の屋敷が並んでいたのだろう。

 今は、「お茶屋のあと」と刻まれた石碑が建つだけである。

 岡山県立倉敷天城高等学校の校内には、昭和2年に建てられた武道場がある。

倉敷天城高等学校

武道場(倉敷天城高等学校のホームページから引用)

 武道場は、校舎や体育館に囲まれているので、敷地外から目にすることは出来ない。

 武道場は国登録有形文化財になっている。こんな古い武道場で稽古をすると、日本武道の雰囲気が出ることだろう。

 倉敷天城高等学校の南側には、真言宗の寺院、恵日山後獄寺遍照院がある。

遍照院

 ここは、薬師如来を本尊として祀っている。

本堂

 薬師如来像を祀る本堂の裏手は、丘になっていて、そこに成田山不動明王が祀られている。

不動堂

不動明王を祀る祠

子を抱いた狛犬

 それにしても、神社建築である流造の中に祀られた不動明王というのも、なかなか珍しい。

 遍照院には、壁を白い漆喰で塗られた庫裏があるが、この庫裏は下津井城の単層楼を移築したものであるらしい。

遍照院庫裏

 堂々たる建物だ。

 さて、天城の町並みの西側には、南北に寺院がずらりと並んでいる。

 その中で最も北側にあるのが、臨済宗の寺院、西江山海禅寺である。

海禅寺

山門前の石橋

 海禅寺は、天城池田家が菩提寺とした寺である。

海禅寺方丈

 海禅寺方丈の欄間は、下津井城の欄間だったという話である。ガラス戸越しに欄間の写真を撮ったが、ガラスに外の軒下が反射して写り、その奥にかろうじて欄間が写った。欄間は、細い木を縦に櫛状にはめ込んだ作りをしている。

海禅寺方丈の欄間

 また海禅寺の境内にあった子安地蔵が抱いている赤子の表情が、やたらと真に迫っていた。

子安地蔵

子安地蔵が抱く赤子

 まるで今にも生きて泣き出しそうな像である。

 さて、海禅寺の奥には墓地があるが、その中に天城池田家を供養する石造笠塔婆が残っている。

天城池田家を供養する笠塔婆

 池田由成は、最初はここに葬られたそうだが、その後遍照院の裏山に改葬されたそうだ。

 ここに建つ笠塔婆は、元は由成夫妻の墓石だったが、今は墓ではなく供養塔になっている。

 陣屋町天城は、とても静かな場所である。城下町だけでなく、日本各地の陣屋町にも、ひっそりと目立たずに歴史が埋もれていそうだ。

盛綱橋 経ヶ島

 藤戸寺の北側を流れる倉敷川の上に、盛綱橋という橋が架かっている。

 この橋は、平成元年に再建されたものだが、再建の際、橋の上に海を渡る馬上の佐々木盛綱銅像が設置された。

盛綱橋

盛綱橋上の佐々木盛綱銅像

 佐々木盛綱が実際に藤戸海峡を渡ったとされる場所は、もう少し上流の先陣橋が架かる辺りとされている。

 天城の領主だった岡山藩家老池田由成は、正保四年(1647年)に、人々が渡し船や徒歩で渡っていた浅瀬に藤戸大橋、小橋という二つの橋をかけた。

 藤戸大橋は、岡山城下栄町を起点として、妹尾、早島、林、児島、下津井に至る四国街道の往来を容易にした。

 江戸時代後期には、四国街道を通っての讃岐の金毘羅権現詣りが盛んになり、参詣者がこの橋を往来した。

 道路網の整備に伴い、大正15年に藤戸大橋は近代的なトラス橋に架け替えられた。

 新しくできた橋は、佐々木盛綱に因んで盛綱橋と名付けられた。

昭和時代の盛綱橋

 昭和が終わると、老朽化した盛綱橋は架け替えられ、現在の2代目盛綱橋となった。

 2代目盛綱橋の橋柱には、藤戸合戦の場面を描いたレリーフがはめ込まれている。

盛綱橋のレリーフ

 2代目盛綱橋竣工と同時に取り付けられた盛綱の銅像は、なかなか精緻に出来た銅像で、生きた盛綱が今まさに海を渡っているかのようであった。

佐々木盛綱銅像

 さて、藤戸寺で源平藤戸合戦の戦没者と自らが殺めた漁師の供養を行った盛綱は、藤戸海峡に浮かぶ小さな島に経を埋め、その上に宝篋印塔を建てた。

 今、経ヶ島と呼ばれる盛綱橋から近い小高い丘がその島である。

経ヶ島

 経ヶ島の麓には、小さな祠がある。藤戸寺の鎮守の弁財天社である。

弁財天社

 この弁財天社は、寛永九年(1632年)に池田由成が天城に陣屋を建てた際に祀られたものだという。

 屋根の下に、創建当初に塗られたと思われる朱色がまだ残っている。

 経ヶ島は、石垣のようなもので島全体が覆われている。島から生えている木は、ウバメガシである。

経ヶ島

 経ヶ島の頂上には、崩れかかった宝篋印塔が二基ある。

経ヶ島上の宝篋印塔

 大きい方が源平将士を供養するもので、小さい方が漁師を供養するものらしい。ここに祀られてから、八百年は経過しただろう。

 その間、藤戸海峡は陸地になり、経ヶ島も島ではなく丘になった。

 経ヶ島の側を流れる倉敷川の袂に、金毘羅大権現と刻まれた灯篭があった。

金毘羅大権現と刻まれた灯篭

 江戸時代には、讃岐の金毘羅大権現備前瑜伽大権現の二大権現詣りが流行したそうだ。

 この灯篭は、金毘羅大権現を目指してここを通過する人々を見守った灯篭だろう。

 江戸時代後期には、庶民も少しは豊かになり、霊場巡りというレジャーを行う金銭的余裕が出来てきた。

 江戸時代に金毘羅詣りを行うため、ここを通過した人々は、藤戸合戦ゆかりの経ヶ島にも足を留めて、頭を下げたことだろう。