補陀落山藤戸寺

 7月17日に備前の史跡巡りを行った。源平藤戸合戦の古戦場を巡る旅となった。

 寿永三年(1184年)二月に、一の谷の合戦で大敗した平氏は、水軍に頼って西に逃れ、備前国藤戸の地に拠った。

 現在、藤戸と天城の間には倉敷川が流れているが、ここは寿永の当時はまだ所々に浅瀬のある海峡であった。児島半島は、当時はまだ島だった。

 倉敷川が流れる辺りは、当時の藤戸海峡の最深部であった。

倉敷川

 源氏は天城に陣を置き、藤戸に陣を布いた平氏軍と藤戸海峡を挟んで対峙した。

 しかし、水軍を持たない源氏方は、平氏方に手も足も出ず、攻めあぐねていた。

 源氏方の武将佐々木三郎盛綱は、地元の若い漁師から、藤戸海峡の中で、対岸に馬で渡ることが出来る浅瀬があることを聞き出した。

 盛綱は、敵陣一番乗りの戦功を同僚に取られることを恐れ、秘密保持のため漁師を殺してしまった。

 盛綱は、漁師から聞いた浅瀬を馬に乗って渡り、敵陣に乗り込んだ。海を渡る盛綱を見た残りの源氏方も盛綱に続いて藤戸海峡を渡り、平氏の陣に続々と攻め込んだ。

源平藤戸合戦大絵図

藤戸海峡を渡る佐々木盛綱

 平氏はまたしても源氏の奇策によって敗れ去った。

 平氏が陣を布いた藤戸にある真言宗の寺院、補陀落山藤戸寺には、佐々木盛綱所用とされる鐙や、盛綱の木像、岡山出身の日本画家森安石象が昭和時代に描いた「源平藤戸合戦大絵図」がある。

 上の写真が、「源平藤戸合戦大絵図」である。絵の右上が源氏陣、左下が平氏陣、海峡を一騎で渡っているのが佐々木盛綱である。平氏陣の右下に藤戸寺が描かれている。

対岸から見た藤戸寺

補陀落山藤戸寺

 藤戸寺は、岡山県倉敷市藤戸町藤戸の丘の上にある。この寺の創建は古い。

 神護景雲二年(705年)、この辺りがまだ海だった頃、藤戸海峡から千手観音の霊像が浮かび出で、この地に奉安された。

 その約30年後の天平年間、行基菩薩がこの地を訪れ、千手観音像を本尊として藤戸寺を創建した。

藤戸寺の伽藍

本堂

 本堂には、その千手観音像が祀られているのだろうか。

 藤戸合戦での功労により、佐々木盛綱は頼朝から児島の地を与えられた。

 盛綱は、源平合戦終息後、合戦で荒廃した藤戸寺を再興した。そしてこの寺で、源平藤戸合戦の戦没者と、自分に浅瀬の場所を教えてくれた漁師の菩提を弔うため大法要を行った。

 謡曲「藤戸」では、児島の領主となった盛綱のもとに漁師の母親が訪れ、亡くなった息子を返してくれと訴えた。

大師堂

 それを哀れんだ盛綱は、母親を慰め、漁師を供養する仏事をここで行った。

 漁師の霊が盛綱の前に現れ、自分が命を奪われた最期の場面を語ったが、今は供養を受けたおかげで恨みも晴れ、成仏したと語って消え失せた。

 藤戸寺は、謡曲「藤戸」の舞台でもある。

 本堂の裏には、寛元元年(1243年)十月十八日に源平将士供養のために建てられたとの銘のある、石造藤戸寺五重塔婆がある。

石造藤戸寺五重塔

 総高3.55メートルで、頂上の相輪は後補であるが、後は建造当時のもので、鎌倉時代の古式を残している。岡山県指定重要文化財である。

 初重塔身の四方仏の表現が優れている。

四方仏

 五重塔婆は花崗岩製だが、風化も進んでいて、銘文は読み取れなかった。

 藤戸、天城の地は、源平合戦の古戦場である。しばらくは寿永の昔に帰って、史跡を巡ることになるだろう。

広田八幡神社 広林山大宮寺

 由良要塞跡の見学を終えて、神戸淡路鳴門自動車道洲本インターチェンジ付近まで戻った。

 インターから西に進むと南あわじ市に入る。

 南あわじ市広田広田の集落に入ると、その奥に広田の鎮守である広田八幡神社がある。

広田八幡神社

 小高い丘の上に社殿がある。それにしても、淡路には立派な八幡さんが多くあるような気がする。

 石段を登ると立派な随身門がある。棟の上に鯱を置き、棟瓦に龍と虎の瓦がある。

随身

龍虎の棟瓦

 八幡神は、第15代応神天皇の神霊で、誉田別(ほむだのわけ)命と呼ばれ、豊後国宇佐八幡宮に祀られ、そこから全国に勧請された。

 奈良時代に朝廷から仏教の守護神として八幡大菩薩の神号を与えられ、神仏習合の神様になった。

 中世には弓矢の神として武家に崇拝された。

拝殿

 神仏習合が進むと、全国各地の寺の鎮守として八幡神が勧請された。

 この広田八幡神社の由来は、寿永三年(1184年)に源頼朝が、西宮の廣田大社にこの地を荘園として寄進して、廣田大社に祀られていた八幡神をこの地に勧請したことに始まるという。町の名の由来もここから来ているのだろう。

本殿

 広田八幡神社の社殿は、明治32年に失火により全て失われた。4年後に再建されたのが今の社殿である。

 広田八幡神社は、広田の集落を見下ろす丘の上にある。いかにも村の鎮守らしい。

 その広田八幡神社の裏手には、広田梅林が広がる。

広田梅林

 昔からこの地は梅の名所だったが、いつしか廃れてしまったらしい。昭和41年に地元の老人クラブを中心に梅林事業部を結成し、鶯宿や南高などの梅300本を植樹して、梅の名所を復興させた。

 梅の季節に来たら、さぞ美しかろう。

 さて、広田八幡神社の東隣にあるのが、真言宗の寺院、広林山大宮寺である。

広林山大宮寺

 大宮寺は、往古に3ヶ寺が合併した寺で、平安時代の鳥仏師作の秘仏阿弥陀如来像を本尊とし、脇侍仏として毘沙門天を祀るという。

大宮寺本堂

本堂彫刻

本堂内陣

 大宮寺の裏手には、ミニ四国八十八ヶ所霊場があるが、その途中に「天明志士紀念碑」が建っている。

天明志士紀念碑

 この天明志士紀念碑は、天明二年(1782年)に発生した縄騒動と呼ばれる一揆の犠牲者の顕彰碑である。

 当時打ち続く天候不順による凶作続きで、農民は疲弊し、徳島藩の財政も窮乏していた。

 藩は、収入増のため新法を次々と繰り出した。特に「縄趣法」という荷造り用の縄の供出命令は農民を苦しめた。

 天明二年(1782年)五月三日、山添、上内膳、納の3ヶ村の百姓が、下内膳村の組頭庄屋宅に押しかけ、縄の代わりに筵でおさめることを認めるよう陳情した。

 現代人には理解しがたいが、農民にとって、筵よりも縄を作る方が、遥かに手間がかかったのだろう。

 五月十三日には6ヶ村、五月十五日には9ヶ村の百姓が、中筋村の組頭庄屋宅に押しかけて命令の撤回を強訴した。

 徳島藩一揆の要求を受け入れて命令を撤回した。その代わり首謀者の広田宮村の才蔵と山添村の清左衛門を翌年三月二十三日に打ち首とした。

天明志士之碑

 その後、淡路島内各地では、打ち首獄門となった2人の霊を秘かに祀り、その事績を語り伝えていた。

 明治31年になって、縄騒動の犠牲者を顕彰する天明志士紀念碑と、板垣退助が撰文を書いた天明志士之碑が建てられた。

 今でも天明志士の命日である毎年3月23日には、石碑の前で天明志士春季大祭が催され、五尺踊りという踊りが奉納されている。

天明志士之碑撰文の板垣退助の名

 板垣退助は、自由民権運動の活動家だが、自由民権の概念のない江戸時代に、自分たちの生活を守るために立ち上がった百姓たちに、自分たちの運動に繋がるものを感じたのだろう。

 明治の自由民権運動は、大正の憲政擁護運動に結び付いた。これらの運動は、戦後の民主主義の源流と言ってもよい。日本の民主主義は、決してアメリカから与えられただけのものではない。

 日本の国柄というと、万世一系天皇を中心とした国体とされているが、民衆が自分たちの権利を守ろうとしてきた歴史も、確固として存在するのである。

 

由良要塞跡 その4

 第一、二砲台には、28センチメートル榴弾砲が設置されていた。

 榴弾砲は、弾道が放物線を描いて山形になるため、敵艦の上部を破壊するのに適していた。

榴弾砲の弾道

 また弾の落下速度が速ければそれだけ破壊力が増すので、標高が高い場所に据えられた。

 第一、第二砲台の標高は、生石山砲台の中でも最も高い。

 また、これらの砲台は、生石山砲台の中でも初期に建設されたので、煉瓦造りが多用されている。

第二砲台の煉瓦造りの構造物

 第二砲台と第一砲台の間には、出石神社が祀られていた。

 今回の淡路の史跡巡りの前に、但馬の史跡巡りで出石を訪れていたので、ここで出石神社に出会ったのが偶然ではないような気がした。

出石神社

 なぜ淡路の地に出石神社があるのだろうか。由来はこうである。

 第11代垂仁天皇の御代に、新羅の王子・天日鉾(あめのひぼこ)が、八種の神宝(やくさのかんだから)を携えて但馬に上陸した。

 天日鉾は、天皇から播磨の宍粟邑と淡路の出浅邑に住むことを許されたが、放浪の末、但馬の出石にたどり着き、八種の神宝をそこに祀った。これが但馬の出石神社の発祥だ。

 天日鉾の曽孫の清彦が天皇に八種の神宝を献上したが、その中で出石の刀子という神宝が消え失せた。

 その後淡路の地で出石の刀子が見つかり、島民がそれを祀った。それがこの出石神社の開創説話である。

 次の但馬の史跡巡りでは、出石神社を訪れることになるだろう。兵庫県の南北に、出石神社があるのは面白い。

 出石神社を過ぎて、第一砲台の横の散策路を歩くと、生石鼻灯台が屹立している。

生石鼻灯台

 淡路島の南岸を行く船を導く灯台だ。

 そこを過ぎて第一砲台の南端に行くと、ここにも展望台がある。

展望台

 この展望台からは、淡路島の南に浮かぶ沼島(ぬしま)や、その先の阿波の山々が見える。

展望台からの眺望

 生石公園の散策路からは、東の紀伊半島から西の徳島県までを見晴るかすことが出来る。ここは南海道を象徴するかのような場所である。

 第一砲台は、生石山砲台の最も南側に設置された。紀淡海峡に近付く敵艦を最初に砲撃する砲台だった。

 28センチメートル榴弾砲2門を備えた砲座が3つあった。榴弾砲は、山なりの弾道を描くので、砲座の前面にある胸墻は高く築かれていた。

砲座

 上の写真が砲座で、その中にある円形の部分が砲床である。ここに榴弾砲が据え付けられた。写真の奥が海である。砲弾は奥の胸墻を越えて海に落ちた。

 砲座の横には、砲側庫があった。

砲側庫

 この第一砲台の砲側庫が、生石山砲台の中で、最も当時の原型を留めている設備ではないだろうか。

 第一砲台の西側には、生石山堡塁の遺構がある。

生石山堡塁

 堡塁とは、敵軍の攻撃から砲台などの軍事施設を防御するための設備である。

 生石山堡塁は、生石山砲台の南側の海岸から上陸してきた敵軍から砲台を守るためのものであった。

 生石山堡塁には、4門の臼砲が据え付けられた砲台があり、その外側に煉瓦製の塹壕があった。

砲台跡

塹壕

塹壕の外側

 この塹壕の内側に陣取った兵士が、堡塁に這い上がってこようとする敵兵に対し、機関銃や小銃による砲火を浴びせられるように設計されていた。

 堡塁跡には、第四砲台跡から発見された26センチメートル加農砲の砲身が展示されていた。

 かつて実際に第四砲台に備え付けられていたものだろう。

26センチメートル加農砲

 砲身内部には線条が入っている。一度も実戦で使われることがなかった大砲である。

 さて、由良要塞跡から更に南側の洲本市佐昆真野谷には、縄文時代早期の遺跡である真野谷遺跡がある。

真野谷遺跡

 今はここに遺跡があったことを示す何物もない。縄文時代早期と言えば、今から約12,000年前~7,000年前になる。そんな昔からここで人が生活していたわけだ。

 由良要塞は、実際には一度も実戦で使われなかった。

 だが、大東亜戦争でもし本土決戦が行われたならば、ここも戦場になっていた可能性があっただろう。

 アメリカの日本本土攻撃計画では、沖縄攻略後、米軍は執拗かつ圧倒的な爆撃と艦砲射撃の後に、九州南部と関東地方に大軍を上陸させる予定だった。そうなれば、日本は皇居を信州の松代に移して更に抵抗する予定だった。

 関東と九州を制圧しても日本が屈服しなかったら、米艦隊はここを通過して関西を目指していたかも知れない。また核爆弾の更なる投下があっただろう。

 そんな事態になっていたら、双方に凄まじい人的被害が出ていたことだろう。

 私はこの冬に中公文庫「日本の歴史」第25巻を末尾まで読み進み、昭和天皇がいわゆる「聖断」に際して語った言葉を読んだ時、覚えず目から涙が噴き出てくる経験をした。

 昭和天皇のあの「お言葉」の中に、日本のそれまでの歴史の意味が集約され、その後に日本人が生きていく意味が集約されている。

 戦いの跡を見ると、自分の命が祖先からつながってきた意味を考えるようになる。

由良要塞跡 その3

 生石公園第一駐車場から木製の階段を登って、第五砲台を目指した。

第五砲台に続く階段

生石公園の全体図

 第五砲台は、標高88.5メートルに位置する、第四砲台を小型化したような砲台である。

 第五砲台は、5つの砲台の中で最後に作られた砲台である。第一~第四砲台の砲側庫が煉瓦製であるのに比べ、第五砲台の砲側庫は石とコンクリートで作られている。

第五砲台の石垣

 第五砲台には、小型の速射加農砲が4門据え付けられていた。この砲には、弾丸に薬莢が付いていて、1回の動作で砲弾の装填が出来たため、速射が可能であったという。

 第五砲台は、第四砲台と共に、終戦まで現役設備として使われたそうだ。

 砲弾が小さかったため、砲側庫も小型である。

砲側庫

 上の写真に、コンクリート製の階段が写っているが、階段を降りたところにある横穴が砲側庫である。

 階段の上に砲座がある。

砲座

 砲座は、上の写真のコンクリートと石に囲まれた、地面が一段下がった部分になる。この中に直径2メートルの砲床が2つ設置されていた。

 コンクリートの壁中にある蒲鉾型の穴は、一時的に弾薬を置いておく弾室である。一つの砲座に八つの弾室があった。

 第五砲台には砲座が二基あったが、一基はほとんど崩壊していた。

 第三砲台は、標高105メートルに位置し、8門の加農砲を備えた生石砲台最大の砲台であった。

第三砲台跡

 8門のカノン砲の内4門は、日清戦争の際、大連の老龍頭砲台から戦利品として持ち帰ったもので、36口径24センチメートルの砲であった。

 残りの4門は、国産の26口径24センチメートル加農砲であった。

26口径24センチメートル加農砲

 フェンスで囲まれた中に砲側庫や砲座が残されている。

砲側庫と砲座への階段

砲側庫

砲座

 第三砲台は、昭和8年には全て廃止されたそうだ。

 第三砲台の中に、観測所跡があった。

観測所跡

 観測所は、各砲台の左右両翼に置かれていた。砲台から敵艦までの方向と距離、敵艦の速度を計算し、砲台長が計算に基づいて砲の角度方角を決め、砲手に指示をしていた。

 砲台が設置してある標高は分かっているので、観測所から敵艦の喫水線までの直線と水面との角度から、敵艦までの距離を計算した。

垂直基線方式の観測

 ただ潮位によって水面の高さが変わるので、要塞には潮位を測る水尺が備え付けられていた。

 専用の計算尺を使って素早く計算し、敵艦までの距離が分かると、砲の方角と角度を決定して弾薬を装填し、敵艦が座標に来るのを待って発射したという。

 第三砲台の中には、周囲を煉瓦で囲まれた砲座もあった。

砲座

 第三砲台と第二砲台の間には展望台があって、そこから紀淡海峡を一望できる。

展望台

展望台から眺めた紀淡海峡

 ここから海を眺めて思ったが、日本が歴史上他国に占領されたことが一度しかないのは、確実に日本列島を取り囲む海のおかげである。

 日本の持つ海上戦力を上回る海上戦力を持った国でなければ、日本を占領することは出来ない。

 そう思えば、海上自衛隊海上保安庁の日々の努力と鍛錬には、頭が下がる思いである。

由良要塞跡 その2

 今に残る由良要塞跡の遺構の多くは、成ヶ島の南側にある生石(おいし)山に集中している。

生石山

 生石山上の由良要塞跡遺構は、生石公園という公園の中にある。山上までの自動車路や駐車場、散策路が整備されている。散策路を歩きながら、遺構を見学できる。

 私も第四砲台跡に作られた駐車場に車を駐車し、散策を始めた。

 駐車場には展望台があり、そこから対岸の紀州がよく見える。

展望台

和歌山市

 少し高いところから見ているせいか、海岸から見た時よりも和歌山市街がよく見える。その背後の紀州の山々もうっすら青く浮かんでいる。

 私の史跡巡りの第一の目的は高野山だが、ここから見える山々よりはるか奥にある。たどり着けるのは何年後だろう。

 駐車場には、由良要塞の全貌を描いた案内板がある。

由良要塞全図

生石山砲台の状況

 生石山には、全部で5つの砲台がある。

 明治になって軍は日本の防衛についてフランスの指導を仰いだ。フランスの参謀中佐マクリーは、東京湾についで紀淡海峡防備の重要性を説いた。

 明治22年に生石山第三砲台の工事に着工し、明治29年には由良要塞重砲兵連隊(4個大隊12個中隊)が編成された。

 日露戦争後の明治39年に全砲台と施設が完成した。

 駐車場の北側に第四砲台の跡のある小高い丘がある。

第四砲台のある丘

 丘の上に登ると、コンクリートで覆われた円形の穴がある。これが砲座である。

砲座

 かつてこの砲床と呼ばれる穴の中に、27センチ加農(カノン)砲が備え付けられていた。

 カノン砲は、水平に砲弾が飛ぶ大砲である。上の写真の向こう側は海である。敵艦が眼下の紀淡海峡を通過する際は、その舷側に向けて水平射撃して撃破する予定であった。

 今ウクライナで宇露両軍に盛んに使われているのは、榴弾砲である。榴弾砲の弾は、放物線を描いて遠くまで飛ぶ。

 ここに設置されたカノン砲は、射程14,100メートルで、対岸の加太まで十分砲弾が届いた。ここには榴弾砲は必要ないわけだ。

 第四砲台は、標高68メートルという低山の上にある砲台である。そのため、生石山低砲台と呼ばれた。

 第四砲台には、四基の砲座があった。

第四砲台の俯瞰図

 上の図は、上空から第四砲台を見下ろした俯瞰図である。

 先ほど写真に出た砲座が、上の図の第四砲座である。砲座の間には、横墻(おうしょう)という砲座を防御する設備があった。

 また砲座の間の地下には煉瓦製の砲側庫という弾薬を保管する倉庫があった。

 第四砲台の下には、煉瓦造りの砲側庫が崩れながら残っている。

砲側庫

 砲側庫の間には、両側から登ることが出来る石造りの階段が設置されている。

石造りの階段

 この階段の上に砲座がある。兵士が砲側庫にある弾薬を持ってこの階段を上り、砲座に補給したのだろう。

 ところで、私は大砲のことを原始的な兵器で、もう時代遅れなものと考えていたが、今回のウクライナ戦争でその認識を改めさせられた。

 森鷗外による翻訳もある19世紀のプロイセンの軍人クラウゼヴィッツが書いた「戦争論」には、七年戦争からナポレオン戦争までの近代ヨーロッパの各戦争の戦術、戦略の批評が書いてある。当時から大砲は重視されていた。

第四砲台跡から見た成ヶ島の全貌

 「戦争論」に出てくる戦争の時代は、陸軍の兵科と言えば、歩兵、砲兵、騎兵しかいなかった。日清・日露戦争のころも、地上戦では歩兵・砲兵・騎兵が戦っていた。

 こんな時代には、大砲が戦いの帰趨を決することがあっただろうが、現代のような、戦車や歩兵戦闘車だけでなく、航空機、精密誘導ミサイル、ドローンが戦場を馳駆する時代に、大砲がどれだけ役にたつのかと考えていた。

 ところが、今回のウクライナ戦争では、遠方の敵を砲撃できる榴弾砲の火力が、未だに戦場の帰趨を決するのだということが分かった。

成ヶ島の砂州

 考えてみたら、敵陣に安価かつ大量に弾頭を打ち込むのには、弾を積んだ戦車を前線に派遣したり、航空機で空爆するより、遠方から大砲で多量に打ち込む方がいいに決まっている。

 当初ロシア軍は大砲の火力でウクライナ軍を圧倒していた。ウクライナは、反撃のためには大砲や多連装ロケット砲が多量に必要だと国際社会に訴えている。

 もしウクライナが砲撃戦でロシアに勝てば、ロシアの政権が危うくなるかも知れない。ロシアの現政権が倒れて、西側寄りの政権が出来れば、シベリアまで西側の勢力圏になる。

 もしシベリアに米軍基地が出来れば、もはや中国は手も足も出ない。

 今ウクライナの大平原で行われている砲撃戦が、戦場だけでなく世界の帰趨を決するかも知れないのだ。

 今回は凄惨なことを書いてしまったが、戦争も人間の歴史の重要な側面だから、これを無視することは出来ない。

 今人類は冷戦終結以来の重大な岐路に立っている。残念ながら、未だに戦争が世界の構造を変える力を持っているのである。

由良要塞跡 その1

 紀淡海峡を西側から扼する要衝に当たる由良の地には、幕末になって、外国船の侵入から大坂湾を防衛するための台場(砲台)が築かれた。

 特に成ヶ島南端の高崎台場には、大規模な砲台が築かれたそうだ。

由良要塞跡の石碑

 日清戦争後の明治29年(1896年)には、大阪湾防衛のために、由良に陸軍の要塞が造られた。

 成ヶ島だけでなく、その南側にある生石(おいし)山にも砲台が築かれた。

 紀淡海峡にある友ヶ島にも砲台が築かれた。こちらは由良要塞跡よりも煉瓦造りの遺構がよく残っており、近年「ラピュタの島」として観光資源になっている。

紀淡海峡友ヶ島

海の向こうの和歌山市

 外敵が大阪湾に船で侵入するには、紀淡海峡明石海峡を通らなくてはならない。明石海峡を通過するには、そもそも瀬戸内海を通過しなければならないので、こちらの防衛はしやすい。

 必然的に、紀淡海峡の防備が重要になる。

 生石山から成ヶ島に向かって、砂州が伸びている。かつて成ヶ島と接続していた砂州である。

 この砂州の先端に向かって歩くと、右手に紀淡海峡と海の彼方の和歌山市街が見える。

 わが史跡巡りも、ついに和歌山市が見える場所まで来たのだ。

 砂州の先端には、波切不動尊と呼ばれる不動明王の石像が祀られていた。

波切不動尊

 紀淡海峡を往来する船舶の航行の安全を祈るために祀られたものだろう。
 この波切不動尊の横に花開いたサボテンがあった。

花開いたサボテン

サボテンの花

 天然のサボテンの花には中々お目にかかることが出来ない。いいものを目にすることが出来た。
 波切不動尊の先に立つと、成ヶ島南端の、高崎台場のあたりが目の前に見える。

高崎台場のあった成ヶ島南端

 高崎台場のあった辺りには、今は灯台が建って船舶の道標になっている。

 シーカヤックでもあれば、向こう岸にすぐ上陸できるだろう。

 そこからは北に向かって延々と砂州が延びて、成ヶ島北端の成山までつながっている。

成ヶ島

 天橋立のように、橋をかけて成ヶ島に渡れるようにしたら、ここにはもっと観光客が来るだろう。

 しかし、成ヶ島には、希少種の植物が自生しているそうなので、今のようにそっとしている方がいいのかも知れない。

 幸いにして、由良要塞は実戦では使用されなかった。

 白村江の戦の後に築かれたものを初めとして、歴史上、日本が外敵に備えた設備は、遺跡としてあちこちに残っている。

 今の日本も安全保障環境の激変に晒されているが、こうした防衛設備の変遷を知ると、安全保障環境の変化の歴史を辿ることが出来る。

 今の自衛隊や米軍の基地も、いずれ遺跡となる時代が来るのだろう。

由良城跡

 南北朝の争乱の真っ只中だった観応元年(1350年)、紀州熊野水軍を率いる安宅氏は、室町幕府将軍足利義詮から、南朝方だった淡路水軍の討伐を命じられた。

 安宅氏は淡路に渡り、島内で紀州に最も近い由良に拠点を築き、勢力を拡大した。

 安宅氏が築いた由良城跡は、後に池田忠雄が築いた成山城と区別するため、由良古城と呼ばれている。

由良古城のある古城山

 由良古城のある古城山は、由良の町並みの北端に位置する。以下由良古城に至る道を案内する。

 洲本方面から県道76号線を南下し、県道と由良の町中に入る道が分岐する三叉路を右に入る。

 三叉路を右に入って、最初に右に入る民家の間の細い道を入っていく。

由良古城への道(ここを右に曲がる)

 細い道に入ってすぐの突き当りにある倉庫を左に行く。

突き当りの倉庫

 すると道が二股に分かれるので、右の坂道を行く。

二股の道を右に行く

 坂道を上がると右手に墓地が見えて、その先に民家が見える。

由良古城への道

 民家を過ぎると舗装路がそのまま山裾に入っていく。舗装路をしばらく行くと、由良古城を示す小さな看板があるので、そこを右に入り山中に入る。

ここで右に行き、山中に入る。

 山中に入り暫く行くと、古城山の山頂にある曲輪に至る。ここが由良古城の本丸跡だろう。

由良古城跡の曲輪

 今は曲輪の中心に成山神社という小さな祠がある。

成山神社の鳥居

成山神社の祠

 成山神社の祠の北側には、本丸跡より一段下がった曲輪がある。

成山神社北側の曲輪

 こうして見ると、由良古城の曲輪は南北に長く連なっている。この曲輪の北端に立つと、その北側に更に二段の曲輪があった。

由良古城北側の曲輪

 北側最下段の曲輪に降り立つと、周囲の竹林の中で異様な音が聞こえた。獣が走り去る音である。おそらく猪だろうと思った。幸い遭遇せずに済んだ。

北側最下段の曲輪

 南北朝期に淡路にやってきた安宅氏は、その後土着した。戦国時代には阿波から淡路にやってきた三好氏に服属した。

 天正九年(1581年)、秀吉の淡路攻めに際して、淡路の豪族の大半は即座に降伏したが、安宅氏だけは抵抗した。

 安宅氏は最終的には降伏したが、信長に所領を没収されて紀州に追放された。淡路の安宅氏はここに滅んだ。

 由良の地は、古代南海道における淡路の玄関口であった。古くには駅(うまや)が置かれていた。

 だが、由良が町として形成されたのは、安宅氏が拠点を置いてからだろう。

 古城山を下りて、県道76号線を南下すると、由良漁港の出入口の上を越える橋がある。

由良漁港

 この橋の上に立つと、対岸の成ヶ島が見渡せる。成ヶ島は、淡路橋立と呼ばれている。

 成ヶ島は、成山という島に細長い砂州が接続した、南北に細長い島である。

成ヶ島

成ヶ島の砂州

成ヶ島を北から南にかけて撮影

 成ヶ島は、元々北端と南端が淡路本島に接続していたが、明和二年(1765年)に北部で、寛政元年(1789年)に南部で開削工事が行われ、島になった。

 成ヶ島の北側にある成山の上に、慶長十八年(1613年)に洲本藩主池田忠雄が城を築いた。

 これが新しい由良城(成山城)である。

由良城のあった成山

 淡路は大坂の陣の後、徳島藩蜂須賀氏の所領となった。蜂須賀氏は、成山城に城代として家老稲田氏を置き、淡路を支配させた。

 寛永八年(1631年)に稲田氏は拠点を洲本城に移した。

 成ヶ島に行くには船に乗らなければならない。釣り客を乗せる船が運航しているのだろうが、釣り客でもない私は乗らなかった。

 考えてみると、江戸時代の開削工事がなければ、今の成ヶ島の西側の海は、湖だったことになる。

成ヶ島沖を行く漁船

 かつて陸続きだった水路を、漁船が外海目指して走っていた。

 紀淡海峡の先には、紀伊が見える。対岸の和泉も見える。ここから海を越えれば、真っ直ぐ畿内に至ることが出来る。三好氏は、戦国時代にここから畿内に進出した。

 海路から見た歴史というものも、面白そうだ。