祥雲寺の参拝を終え、更に北上する。
京丹波町下粟野にある国指定重要文化財の明隆寺観音堂を訪れた。
観音堂は、かつて寿命山明隆寺という寺院に属していたが、明隆寺は廃寺になった。
観音堂への参道の石段は、最近誰も登るものがいないのか、草に覆われている。
参道の途中に、かつて和知第三小学校の校舎があった広大な空き地がある。その先に更に参道の石段が続いている。
明隆寺観音堂は、文明年間(1469~1487年)に建立されたものと見なされている。
文明年間と言えば、応仁文明の大乱の時代であり、日本中が争乱に見舞われていた時代である。
参道の石段を登っていくと、金属の覆いで屋根が覆われた観音堂が見えてくる。
屋根は元々茅葺であろう。
観音堂は、桁行5間、梁間5間の仏堂である。広壮な建物であり、正面からでは、1枚の写真に全体が収まりきらない。
この観音堂は、早い段階から村堂であったと言われている。村堂とは、特定の寺院に属さずに、村人が管理するお堂のことである。
元禄四年(1691年)に下粟野の村人により修理が行われた際の棟札を見ると、近隣の寺院の住持が記載しているそうだ。少なくともその当時には、村堂になっていたことになる。
観音堂は、四方が開け放たれた吹き抜けのお堂である。こんな吹き抜けの木造建築が好きである。
村人は、村の集会をこのお堂で開いていたことであろう。
現代でも、自治会の会合が公民館などで行われている。
昔は村の会合が村の神社か村堂で行われていたのだ。
屋根を見上げると、やはり茅で葺かれていた。茅葺の屋根は維持が大変である。
そのため、金属の屋根で覆ったのであろう。
お堂の中央奥には、厨子がある。厨子の中には、平安時代後期に彫られた木造観音菩薩立像が安置されている。
建物の北西角には、囲炉裏があり鉄製の釜などが置かれている。
寒い時期には、お堂に集まった村人はここで暖を取ったことだろう。
囲炉裏の近くの柱が黒く煤けているので、実際に使われていたことが分かる。
観音堂の北西には、鎮守と思われる小祠がある。
観音堂から北東に行くと、現在観音堂を管理している地蔵院がある。
石段と石垣を見ると、この寺院も古い歴史を持っていそうである。
観音堂は、古くから村堂として村人に利用されてきた。日本の山間の村落に来ると、中世の村落の歴史がそのまま残っているような光景に遭遇する。
下粟野の観音堂も昔からの村の歴史を語ってくれる史跡である。
歴史と言えば、教科書に載るような偉人や貴族、武将などを思い浮かべるが、実は名も無き百姓たちが、日本人の生命を繋いできた食料を生産したきたのである。
名も無き百姓の歴史こそが、真の日本の歴史の姿なのかも知れない。