大梅山興禅寺 前編

 達身寺の見学を終えて、丹波市春日町に向かった。

 途中激しく雨が降り出した。私は傘を持って来ていなかったので、途中コンビニエスストアに寄って、安い傘を買った。

 今後、突然の雨に備えて、スイフトスポーツにはこの傘を常備しておこうと思う。

 兵庫県丹波市春日町稲塚の集落の奥にある、千丈寺という寺に行った。ここには、兵庫県指定文化財の宝篋印塔があるという。

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千丈寺

 千丈寺は無人の寺である。千丈寺に至るまでの道沿いにも、人が住まなくなった空き家があった。

 これからの日本は、少子高齢化が進み、空き家や空き寺が増えてくるだろう。今後史跡巡りを続ける内に、それを実感させる情景に遭遇することだろう。

 千丈寺は、小さな寺院で、本堂もささやかなものである。

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千丈寺本堂

 説明板もなく、この千丈寺の宗派が何かも分からない。ここは、奥丹波の国人・赤井氏の菩提寺だったと言われている。

 千丈寺本堂の裏にある宝篋印塔や供養塔群は、その赤井氏を供養するものだと言われている。

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千丈寺宝篋印塔

 供養塔群の内、中央の高い宝篋印塔が兵庫県指定文化財の千丈寺宝篋印塔である。

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千丈寺宝篋印塔

 台座(最下層の石)は反り花座付きで、その上の軸石の四面には、蓮華座付き月輪の中に金剛界四仏の種字が彫られている。

 軸石の上の笠石の下側が、台石の反り花座に対応して請花になっているのが珍しいらしい。

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種字

 正面の種字は、阿弥陀如来を表すキリークである。

 この宝篋印塔は、銘文がないので正確な制作年代は分からないが、室町時代初期は下らないと言われている。

 なかなか美しい宝篋印塔であった。

 次に千丈寺から東にある丹波市春日町黒井にある曹洞宗の寺院、大梅山興禅寺に赴いた。

 興禅寺は、黒井城跡の麓にある寺院である。

 今興禅寺が建つ場所は、赤井氏が黒井城主だった時代に下館(しもやかた)が置かれた場所と言われている。

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黒井城跡と興禅寺の案内図

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興禅寺背後の黒井城跡

 興禅寺の南側に、公道に面して惣門が建っている。
 この惣門は、元々黒井城の門として使われていたもので、寛永三年(1626年)に興禅寺が現在地に移転した際に、山上の城跡からここに移されたと言われている。

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興禅寺惣門

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 作りは確かに城郭の門である。
 興禅寺の前身の杖林山誓願寺は、ここより南約150メートルの地に建っていたが、戦国時代に、黒井城に拠る赤井氏を攻撃した内藤氏により焼かれてしまった。

 その後、黒井城主赤井(荻野)直正は、誓願寺の復興に努めたという。

 江戸時代になって、誓願寺は興禅寺と名を改め、現在地に移転された。

 興禅寺の南側は、七間堀と呼ばれる長さ約80メートルの水濠があり、その奥に高さ約4.5メートルの高石垣が連なる。

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七間堀と高石垣

 高石垣の中央付近は、山上の黒石城跡の石垣と同じ野面積みの工法で築かれている。

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野面積みの石垣

 後に紹介する黒井城跡の石垣と石の材質や色がよく似ている。この寺が、元々は武士の城館であったことを示している。

 かつての武将の館跡であるこの興禅寺も、黒井城跡の一部として国指定史跡になっている。

 黒井城は、天正七年(1579年)に明智光秀の攻撃により落城する。城主の赤井氏は逃亡し、その後に光秀の重臣斎藤利三(としみつ)が入った。

 赤井氏の下館も斎藤氏が入ってそのまま使うことになった。

 斎藤利三の娘として、この下館に生まれたのが、徳川家光の乳母となったお福こと春日局である。

 次回は、春日局の生誕地跡に建つ興禅寺境内について紹介する。