箕谷古墳群の見学を終え、国道9号線を西に走る。
鎌倉時代に、地元の豪族朝倉高清が、次男安高に八木の地を分け与え、安高が八木姓を名乗った。
八木氏は安高から豊信まで15代約350年間に渡ってこの地を領した。
その八木氏が、南北朝時代に城山に最初の土城を築いた。今、八木土城と呼ばれている城跡がそれだ。
八木土城は、石垣のある八木城跡より更に奥に残っている。
八木城跡のある城山は、標高約330メートルである。山の東側の尾根に登山口がある。
登山口近くに薬師堂がある。薬師如来に手を合わせ、登山の無事を祈った。
薬師堂のある道を北に進むと、登山口がある。
登山口から登って行くと、杉林の間の道を行く事になる。
それほど険しい道ではない。登りやすい道が続く。
途中、小規模な石垣のある丘陵があったが、どうも城の防御機構のようには見えない。
築城当時のものなのか、近年になって築かれたものなのかは分からない。
暫く進むと、巨岩があり、その中に不動明王が安置されていた。手を合わせ、不動明王の真言を唱えてから更に進んだ。
この巨岩の上は曲輪になっている。結構広い削平地だ。
更に進むと、二の丸と思われる曲輪が見えてくる。
更に進むと、金網で囲まれた本丸が見える。
本丸の曲輪は、穴太流の石垣で覆われている。
八木城の領主だった八木氏は、山陰の雄・山名氏に仕え、一時は山名四天王と呼ばれて、重臣群の一角を担った。
天正八年(1580年)、播磨から但馬に侵攻した秀吉軍の攻撃により、八木城は陥落し、八木氏はここに途絶えた。
その後、天正十三年(1585年)、八木城に秀吉配下の別所重棟が入り、その子別所吉治が跡を継いだ。
この重棟、吉治の二代が、八木城を大改修し、八木土城の南東に、穴太流の石垣を持つ八木城を築いた。
本丸の南西面には、長さ約40メートル、高さ約8.6メートルに渡って、高石垣が築かれている。
この高石垣が圧巻の景色である。
竹田城跡のように緊密に組まれてはいないが、但馬でこれほどボリュームのある石垣が山上に残る城跡は、竹田城跡の他にはこの八木城跡しかないだろう。
高石垣を構成する石は、大半が自然石か、それを割って作った割石による乱石積である。このように乱雑で崩れた石垣も味があっていいものだ。
本丸の西側にも石垣は続いている。
本丸の上は、三段になった曲輪であるが、今はそこに3体の石仏が祀られている。
天正時代の合戦で亡くなった武者を弔うために建てられたものなのか、別の由来があるのかは分からない。
本丸の曲輪の最奥には、天守を建てるために築かれたと思われる平坦地がある。
ここが本丸で最も高い場所だが、建物の礎石などは見つかっておらず、ここに建物が建っていたかは不明である。
最後の城主別所氏が関ケ原の戦で西軍に与し、戦後に徳川家により転封させられ、八木城は廃城となった。
八木城は、南北朝時代から戦国時代まで続いた土城と、安土桃山時代に築かれた石垣城が並んで残る山城である。
城の歴史の変遷を味わうことが出来る珍しい城である。