岡山市御津郷土歴史資料館の道路を挟んだ北側には、日蓮宗不受不施派の祖山、龍華山妙覚寺がある。
日蓮宗不受不施派は、今まで何度か紹介したように、法華経信仰を正法とし、多宗派から布施を受けず、多宗派の寺院に対して参詣や布施をしないという、日蓮宗当初の不受不施義を現在も守り続けている宗派である。
文禄三年(1594年)、秀吉は、京都方広寺での千僧供養に、各宗派の僧侶の参加を求めた。
この時、日蓮宗の内部では、多宗派からの供養を受けないという不受不施義を守り通すべきだとする不受不施派と、権力に屈して千僧供養に参加し、宗派を存続させるべきだという受不施派に分裂した。
京都妙覚寺の日奥上人は、ただ一人不受不施義を守るべきだと訴えて、千僧供養への参加を拒絶したが、妙覚寺自体が受不施派に転じたため、妙覚寺を去った。
備前は、妙覚寺の末寺が多く、また玉松城(金川城)を拠点とした戦国大名松田氏が日蓮宗不受不施派を信仰したため、不受不施派の勢力が強かった。
江戸時代に入ると、徳川幕府は不受不施派を禁教とした。その意向を受けた岡山藩も同派を徹底弾圧した。
備前の不受不施派は、表面上は他宗派に転宗したように装い、内心では不受不施派を信仰する「内信」になるなどして、信仰を守り続けた。
明治に入って、不受不施派の禁教が解かれた。明治9年に、不受不施派の名僧日正上人により、不受不施派が復興され、龍華教院が創建された。
明治12年には、現在の本堂が建てられ、明治15年には派祖日奥上人がいた京都妙覚寺にちなんで龍華山妙覚寺と改称された。
こうして京都妙覚寺が備前で復興された。今では、妙覚寺が日蓮宗不受不施派の祖山となっている。
妙覚寺の周囲は、立派な石垣で囲まれている。
妙覚寺の石垣は、明治時代に寺が創建された時、日正上人が裏山にある松田氏の居城跡、玉松城跡の石垣を買い取って築いたものである。
妙覚寺の門前に立ってみて驚いた。門扉に「信徒以外立入禁止」と書かれた表示板が貼られている。
ここまで明確に拒絶されると、境内には入れない。
私は今まで数々の不受不施派の寺院を訪れたが、信徒以外の立ち入りを禁止した寺院を訪れたのは初めてだ。
妙覚寺には、国指定重要文化財の長谷川等伯作「絹本著色花鳥図」や、岡山県指定重要文化財の「紙本淡彩世界図屏風」などの文化財がある。
これらの文化財の複製が、御津郷土歴史資料館に展示してあった。
また境内にある梵鐘には、建長四年(1252年)十二月の銘がある。備前金剛寺、徳王寺の梵鐘として使用され、秀吉の備中高松城の水攻めの際には陣鐘として使われたそうだ。
この梵鐘は、岡山県指定重要文化財である。
ところで、妙覚寺のある場所は、幕末に金川が生んだ江戸時代後期の名医難波抱節が開いた私塾・思誠堂塾があった場所でもある。
御津郷土歴史資料館に展示してあった思誠堂塾の図を見ると、妙覚寺の境内の中に塾が建っている。
明治時代には、まだ境内に思誠堂塾が残っていたと見える。
難波抱節は、京で内科、紀州で外科、大坂で種痘について学んだ。
金川に戻って日置氏の侍医になり、医院を開業した。
抱節は、備前で麻酔薬「麻沸散」を用いた乳癌摘出手術を行ったり、天然痘やコレラの流行を防ぐため、住民に種痘を行った。備前、備中、備後三国一の名医と称された。
また抱節が著した「胎産新書」は、江戸時代最高の産科書として評価されているそうだ。
安政のコレラ大流行の折は、抱節は種痘を行って多くのコレラ患者を救ったが、安政六年(1859年)に自らコレラに感染し、死去した。
抱節の門下生は1,500名を数え、今の岡山大学医学部の前身の岡山医学校の開設に関わった弟子もいたという。
難波抱節は、「医は仁術」を信条に、名もない人々の医療に尽くした人物だったという。
不受不施派の歴史を見ると、どんなに弾圧されても、信念を持ち続ければ、一つの思想や教えは生き残るということが分かる。
不受不施派が苛烈な弾圧を受けてでも現代まで生き残ったところを見ると、この教えには、一部の人を心服させる要素があったのだろう。