岡山県津山市上之町にある大隅神社は、宮川以東の津山城下の総鎮守である。
大隅神社は、和銅年間(708~715年)よりも前から祀られていたとされている。
津山盆地の山林や原野を開拓し、美作の国造りの化身として崇められた「豊手」という異人が、出雲国日隅宮(今の出雲大社)を勧請し、大隅宮と称したのが鎮座の始まりと伝えられている。
鳥居を潜って石段を上ると、神門がある。大隅神社の神門は、津山市指定重要文化財だが、作りがどう見ても城郭の門である。
大隅神社は、元々現在地より600メートル東に建っていたが、元和六年(1620年)に津山藩主森忠政が、津山城の鬼門を守護するため、現在地に移転した。
神門も、津山藩ゆかりの城門を移築したものだろう。
城門を潜ると左手に昭徳館という近代和風建築がある。
昭徳館は、昭和3年の建築のようだ。
昭徳館の前には、大隅神社の神輿を祀る庫がある。
中の神輿を拝観したが、全体が金色に輝く華麗な神輿であった。
大隅神社氏子町内会には、全部で11台のだんじりがある。大隅神社の祭礼は、表年、裏年とで行事が分けられているが、表年には11台全部、裏年には2~3台のだんじりが出動する。当然この神輿も祭礼時には町内を渡ることになる。
石段を上がっていくと、拝殿が見えてくる。
本殿は、春日造りである。出雲大社の祭神を勧請しているので、大社造りでもおかしくないが、何か理由があって津山藩は春日造りを選択したのだろう。何故なのか知りたいものだ。
津山市上之町には、幕末に水練術神伝流の十代宗師となった植原六郎左衛門の旧宅跡がある。
神伝流は、熊本藩で始まった操船法、水馬、渡河などの兵法である。
植原は尊王佐幕の立場を取った。植原は砲術家でもあり、幕命を受けて、津山で大量の大砲を製造したが、実戦で使われず、莫大な借財が津山藩に残っただけだった。
植原六郎左衛門旧宅跡のすぐ近くに、明治の法学者、津田真道の生家跡がある。
津田真道は、文政十二年(1829年)にこの地に生まれた。箕作阮甫に師事し、文久二年(1862年)には、西周とともにオランダに留学する。
津田は西洋法学を学び、帰国後は法学者として幕府、明治政府に仕えた。
明治6年には、森有礼、福沢諭吉、西周らと、啓蒙学術団体・明六社を結成する。津田も津山洋学の系譜を引く者の1人である。
津山藩は、森家の後は親藩松平家が藩主となった。開明的な思想を取り入れることを奨励した藩だったようだ。
津田真道生家跡の辺りからは、見事な石垣が残る津山城跡が眺められた。
心の中で津山城と次回の再会を約し、帰路についた。