淡路市郡家(ぐんげ)の町の東側の山中に、郡家古墳がある。
郡家バス停のすぐそばから、古墳に上がっていく坂道がある。入口に目立たない看板が立っている。
上の写真の坂を上がり、最初の民家の脇の細い道を通ると、古墳に行きつくことが出来る。
郡家古墳のある山は、荒神山と呼ばれ、古墳の脇に三方荒神社の祠がある。途中塞の神の石の祠があった。
ここを過ぎると、兵庫県史跡郡家古墳の立派な石碑が建っている。
この石碑のすぐ横に石段があり鳥居がある。三方荒神社の鳥居である。三方荒神社の祠は、祠と言うより、物置のような目立たない建物だった。
石段を上がったところが、郡家古墳の墳頂になる。
郡家古墳は、直径約30メートルの円墳である。造成されたのは、約1400年前である。
郡家という名は、この辺りにあった津名郡の郡衙(ぐんが)から来ている。郡衙とは、郡の行政庁があった場所で、今でいう市役所周辺の町のようなものだ。
郡家古墳の被葬者も、郡衙と関係する地元の有力者だろう。
郡家古墳には、横穴式石室があったようだが、長年の風雨で石室の天井石が露出し、石室が崩落したようだ。
ただただ巨大な石が転がっているだけに見える。
ここから淡路市下河合の伝淳仁天皇高島陵に向かう途中の道沿いが、津名郡の郡衙の遺跡である郡家長谷遺跡が発掘された場所である。
遺跡があったことを示すものは何もない。
さて、ここから南東に行くと、小高い丘が見えてくる。この丘の中に、淳仁天皇陵と伝承されている高島陵がある。
丘の上の一軒家を過ぎると、丘の中に細い道が入っていく。途中分かれ道になり、左に行く道の傍に「淳仁天皇御陵」と刻まれた黒い石碑が建っている。
淳仁天皇は、第47代天皇である。在位は、天平宝字二年(758年)から天平宝字八年(764年)の間である。
天武天皇の子、舎人親王の七男で、大炊(おおい)王と呼ばれていた。
時の権力者、藤原仲麻呂は、早逝した長男の妻を大炊王に嫁がせ、王を自邸に住まわせた。
そして自らの息のかかった大炊王を皇太子に推して、孝謙天皇の退位後、王を天皇の位に就かせることに成功した。
淳仁天皇即位後は、藤原仲麻呂は政治の実権を握り、皇族以外で初めて太政大臣に任命され、人臣の位を極めた。天皇から恵美姓を賜り、恵美押勝と称した。
しかし、弓削道鏡を寵愛する孝謙上皇を、淳仁天皇を通して諫めたため、孝謙上皇の怒りを買った。以後孝謙上皇が政治の実権を握る。
恵美押勝は、天平宝字八年(764年)、武力で実権を奪い返そうとして挙兵する。恵美押勝の乱である。
恵美押勝は乱に破れた。淳仁天皇は退位させられ、淡路に流された。孝謙上皇は重祚して称徳天皇となり、以降称徳天皇、道鏡による独裁政治が始まる。
淡路に流された淳仁天皇の伝承地は淡路各地に残っている。
宮内庁により正式に淳仁天皇陵に比定されたのが、南あわじ市賀集にある淳仁天皇陵である。
この高島陵は、あくまでも伝承地という位置づけである。正式な天皇陵は、御陵の敷地に入ることは出来ないが、ここは宮内庁が管理していないので、自由に入ることが出来る。
しかし、淳仁天皇陵ではないとすると、一体誰の陵墓なのだろう。
この伝淳仁天皇高島陵は、淡路市中村にある法華宗の寺院、妙京寺が管理している。
妙京寺は、坂上田村麻呂の子孫の田村氏が興した寺である。田村氏は淡路国一宮の伊弉諾神宮の祭司となり、妙京寺を別当寺として建立した。
妙京寺には、淳仁天皇の御尊牌が祀ってあるそうだ。
淳仁天皇は、淡路廃帝と呼ばれている。廃帝という言葉の響きからは、伝奇ロマンを感じる。
淡路の人々も、廃帝の事績を大切にしたようだ。今も妙京寺では、毎日御尊牌に経が上げられていることだろう。
淳仁天皇は、兵庫県内に眠るただ一人の天皇である。ひっそりと島の一角に眠っている。
淡路で静かに亡くなった廃帝の生涯を偲んだ。