木山寺本堂は、大師堂のある場所から、さらに石段を上がったところにある。
上の写真を見てお気づきになっただろうか。寺院の本堂に至る石段の両脇に狛犬があり、石段の上に鳥居がある。
木山寺本堂は、寺院の本堂でもあり、神社の拝殿でもある。神仏習合を具現化した建物なのである。その秘密は、次回で明らかにする。
石段上の鳥居は、青銅製である。金属製の鳥居は珍しい。
本堂は、昭和30年に再建されたもので、本尊は薬師瑠璃光如来と十一面観世音菩薩である。
木山寺は、弘仁六年(815年)に開基されたが、仁寿年間(851~854年)に文徳天皇の勅願寺となった。
応永十八年(1411年)に赤松義則が一山を寺領として寄進した。赤松義則の時代に、赤松家は最盛期を迎え、ここ美作も赤松家の領地になっていた。
その後、戦国時代には、毛利、宇喜多、小早川といった戦国武将から尊崇を集め、江戸時代に入ってからも津山藩主森家などから信仰された。
本堂は、入母屋造に唐破風の向拝が付いた堂々たる木造建築である。
赤絨毯が敷かれた外陣までは上がることが出来る。
外陣南側に、何故かハート形の窓が付いている。
ハート形窓の向こうには、後で紹介する青面金剛堂がある。
外陣と内陣を区切る欄間の彫刻も見ごたえがある。
内陣の中心には、本尊の薬師瑠璃光如来と十一面観世音菩薩の像を祀る厨子がある。
厨子の扉には、薬師如来の守護神である十二神将が描かれている。
その手前に、稲荷神の使いである白狐の像がある。
狛犬や狐の像が仏像の前にあるのは、不思議な感じがするが、実はこの本堂の奥に、薬師瑠璃光如来の化身である木山牛頭天王と、十一面観世音菩薩の化身である木山善覚稲荷大明神を祀る鎮守殿があるのである。
この空間は、仏前であると同時に神前でもあるのだ。
そう考えると、木山の麓にある木山神社の里宮は、この木山の信仰空間全体の中では、前菜のような位置づけだと感じる。
それにしても、ここまで神仏が混交した空間は、私も今までの史跡巡りで見たことがない。
古いお堂のように見えるが、建立された年代は不詳である。
青面金剛は、髑髏の首飾りをし、体に蛇を巻き付け、人の髪を掴んで手からぶら下げるという怖い姿をしている。
インド密教は、ヒンドゥー教の主神であるシヴァ神を取り入れて、マハーカーラ(大黒天)として祀ったが、青面金剛は、そのマハーカーラの像に瓜二つである。
しかし、日本の青面金剛は、仏教と無関係に中国に伝わったシヴァ神の姿が、中国から道教と共に日本に伝わったものである。
チベット仏教の僧侶は、日本の青面金剛を見て、「これはマハーカーラだ」と口を揃えるそうだ。
青面金剛堂の奥には、木山寺の守護神である古車稲荷大明神が祀られている。
真言宗と稲荷神の関係は深い。
弘仁十四年(823年)に、嵯峨天皇の勅により、弘法大師空海は、東寺を鎮護国家のための密教道場とすることを許された。
伝説では、その際、稲荷神の化身が東寺を訪れたそうだ。弘法大師は稲荷神の化身を丁重に接待したという。
今でも、伏見稲荷大社の稲荷祭では、伏見稲荷大社の神輿が神幸の際に東寺に立ち寄って、東寺の僧侶から読経と御供を受ける。
これは、弘法大師が稲荷神を接待したという伝説から来ている。
明治政府が強引に分離した神仏は、政治に関係なく、今も昔も親密な関係にあるようだ。