操山は、尾根が東西に長く伸びた山だが、山裾に多数の寺院が建っている。
今日紹介するのは、そのうちの一つ、岡山市中区国富3丁目にある、瓶井(みかい)山禅光寺安住院である。
禅光寺は、天平勝宝年間(749~757年)に報恩大師が制定した備前四十八ケ寺の一つで、現在は真言宗の寺院である。
禅光寺は、最盛期には十数院の塔頭を有していたが、安住院はその本院だった。江戸時代後期に寺勢が失われ、今は安住院と普門院の2つの塔頭が残るのみである。
朱色の禅光寺仁王門は、室町時代中期の建築で、岡山県指定重要文化財である。岡山県下の楼門の中では最古の部類に属する。
仁王門を潜って右に狭い道を進むと、禅光寺の現存する塔頭の一つである普門院がある。
普門院には、岡山市指定文化財の青銅孔雀文磬がある。磬(けい)とは、への字型をした板で、吊り下げてバチで叩いて音を出す楽器である。青銅孔雀文磬は、両面に孔雀文を陽鋳し、意匠・造形とも優れた作品であるという。
仁王門を潜って参道を真っすぐ進むと、左手に安住院がある。
安住院の道路に面した境内表側には、白色の石造の土台に載った鐘楼がある。境内に入って、鐘楼の右肩越しに山の方を見ると、後で紹介する多宝塔が木々の間に頭を覗かせている。
この多宝塔は、岡山後楽園からも遠望できるそうだ。後楽園の借景として利用されており、「見返りの塔」と呼ばれている。
安住院本堂は、慶長六年(1601年)に小早川秀秋によって再建された。
向拝、軒、内部入側廻りは江戸時代後期の改修を受けているが、基本的に桃山時代様式の中世密教本堂の形式を良好に残している貴重な建造物で、岡山市指定文化財になっている。
本堂は、元々今の地から約200メートル坂を上がった古観音堂のある場所にあったが、正月修正会を行うため、寛政十二年(1800年)に現在地に移転された。
ご本尊の木像毘沙門天立像は、平安時代中期の作で、中世には戦勝の神として武将の祈願が厚かった。これも岡山市指定重要文化財である。
本堂の隣には薬師堂があり、その隣には大師堂がある。
大師堂の内部を観ると、弘法大師像を中心に、向かって右に胎蔵曼荼羅を、左に金剛界曼荼羅をかけており、真言宗で言うところの生身の大日如来たる大師の姿であった。
さて、安住院の正面にある瓶井山の上に建つ多宝塔の下まで行って見た。
私が史跡巡りで訪れた8番目の多宝塔である。
この多宝塔は、元禄年間(1688~1703年)に岡山藩主池田綱政が、後楽園の借景にするために着工を命じ、次の藩主池田継政の時に完成した。
宝形造、本瓦葺の二層の塔婆で、総高約20メートルである。内部には須弥壇を設け、大日如来坐像を安置している。
宗教的必然ではなく、最初から岡山後楽園の借景にするために藩主によって造られた塔のようだ。となると、この多宝塔も後楽園の一部ということになる。
さて、私が安住院を訪れたのは、彼岸のころで、安住院の墓地にも墓参の人々の姿が多数見えた。
墓地を歩いていると、岡山を代表する文学者、内田百閒の墓の案内板があり、ここに百閒が眠っていることを知った。
内田百閒(ひゃっけん)は、明治22年から昭和46年までを生きた岡山市出身の小説家・随筆家で、本名は内田榮造という。号の百閒は、岡山を流れる百間川から採られている。
百閒は夏目漱石の門下生で、「冥途」「百鬼園随筆」「阿房列車」などで有名だが、私は残念ながら一作も読んだことがない。
昔三島由紀夫の「作家論」を読んだが、その中で三島が百閒のことを稲垣足穂と並んで畏敬すべき作家として扱っていたことが記憶に残っている。
百閒と言えば、晩年に芸術院会員に推薦された時、「嫌だから嫌だ」と断ったことが有名だが、単なる文壇の重鎮ではない、子供らしさのあった人なのだと思う。
安住院の古観音堂の前に内田家4代の墓があり、その中に百閒の墓があった。
墓石を見ると、本名内田榮造の横に慎ましく「百閒」と彫られている。百閒が遺言して彫らせたものか、遺族が彫らせたものかは分からない。
私は何故か文学者の墓や居宅跡を詣でるのが好きである。読んだことのない作家のものでも訪れるのが好きだ。
文章だけで世を渡った人の生きた痕跡というものは、何だか奥ゆかしく感じられるのだ。