乾向山東隆寺大雲院 立川吉村家住宅

 7月30日に因幡の史跡巡りを行った。

 暑い盛りで、鳥取市猛暑日だった。

 最初に訪れたのは、鳥取市立川町4丁目にある天台宗の寺院、乾向山東隆寺大雲院である。

大雲院

 東隆寺大雲院の開基は鳥取藩藩祖池田光仲で、開山は光仲の従弟の池田公侃(こうかん)である。

 光仲と公侃は、徳川家康を曾祖父とする従兄弟同士である。

 光仲は、幕府から許可を得て、樗谿(おうちだに)の地に東照大権現(家康の神号)を祀る樗谿神社(現鳥取東照宮)を建てた。

境内に咲く蓮の花

 大雲院は、慶安三年(1650年)に、樗谿神社を管理する別当寺として、今の樗谿公園のある場所に建てられた。

 神仏習合時代には、別当寺と呼ばれる寺院が神社を管理していた。

 大雲院は当初は、淳光院という寺号であった。

 明治2年の神仏分離令で、樗谿神社の別当職を解かれた大雲院は、末寺であった霊光院のあった現在地に移転した。

 現在の本堂は、霊光院の本堂として建てられたものである。

本堂

 霊光院は、享保二年(1717年)に、鳥取藩士で米川用水作事奉行だった米村所平が、息子の五八郎の早逝を嘆き、その菩提を弔うために建立したものである。

 所平は、大雲院五代観洞和尚に帰依し、その許可を得て、大雲院住職の隠居所のあったこの地に本堂を建てた。本堂内には、阿弥陀如来坐像を本尊、観音菩薩像、勢至菩薩像を両脇侍として、その周囲を取り囲むように西国三十三所の観音像を祀った

米村所平と米村家累代の墓

 所平夫婦は、観洞和尚から得度受戒を受け、霊光院に草庵を結んで、五八郎の菩提を弔うため、念仏三昧の日々を送った。

 享保十二年(1727年)、所平が死去したため、境内に所平夫婦の墓と五八郎の墓を築き、以後米村家累代がこの墓に祀られるようになった。
 さて、本堂に上がって、本尊などを拝観することが出来た。

 本堂内は写真撮影禁止だったので、写真では伝えられないが、本堂の阿弥陀如来坐像と両脇侍像、西国三十三所観音像は、金色に輝き、実に威厳と慈愛に満ちた御像であった。

 これらの仏像を拝観出来ただけでも、この日暑い中、鳥取市に来た甲斐があったと思った。

 境内には、慈覚大師円仁画像を本尊とする元三大師堂がある。

元三大師堂

 この元三大師堂は、明治3年に樗谿から移転された建物である。旧大雲院の唯一の遺構である。

 大雲院は、鳥取藩主池田家の祈願所であった。元三大師堂内にある霊屋には、池田家歴代16名の位牌と、徳川将軍家7名の位牌が祀られている。

元三大師堂前の葵の家紋のある香炉

 鳥取藩主初代光仲から第11代慶栄(よしたか)までの墓は、以前紹介した鳥取市国府町奥谷にある鳥取藩池田家墓所にあるが、最後の藩主第12代慶徳から第15代までの墓は大雲院にある。

 第12代以降の墓は、かつては東京の多磨霊園にあったが、平成15年に大雲院に移されたそうだ。

池田家第12代以降の墓所

 それにしても、鳥取藩士米村所平は、息子の菩提を弔うために建てた寺が、藩主の子孫の菩提寺になったことを知り、泉下でさぞ恐縮していることだろう。

 大雲院から東に200メートルほど歩くと、明治時代中期に建てられた米穀商吉村家の住宅がある。

 国登録有形文化財の立川吉村家住宅である。

立川吉村家住宅

主屋南棟

主屋北棟

勝手蔵と通用門

 立川吉村家住宅は、鳥取市内では珍しい町屋建築として、主屋、勝手蔵、米蔵、什器蔵、通用門が平成10年に国登録有形文化財に指定された。

 内部は非公開であるため、外観を見学するに留まったが、立派な景観であった。

 ところでこの日鳥取市内は、気温が37~38度まで上昇した。

 私はこの日、朝9時ころから夕方5時ころまで、ほとんどの時間を屋外で過ごした。

 私は、麦わら帽子を被り、水筒に入れた麦茶を飲みながら歩いた。

 この日気づいたが、日本の夏の屋外は、麦わら帽子と麦茶で乗り切ることが出来る。

 風通しがよく、首を直射日光から守る麦わら帽子は、キャップ帽より断然避暑効果がある。

 また、スポーツドリンクを飲んでばかりでは、糖分があるせいか、飲めば飲むほど渇きを覚え、疲労を感じる。

 麦茶はミネラルが豊富で、飲んでも疲れを覚えず、味に飽きない。

 日本の夏は、麦わら帽子と麦茶である。先人がやってきたことは、やはり間違ってはいないのだ。