闘龍灘

 兵庫県を代表する河川である加古川は、兵庫県丹波市の粟鹿山付近を源流とし、瀬戸内海まで流れている。

 兵庫県加東市上滝野の加古川中流域にあるのが、名勝闘龍灘である。

 ここは、川底から数メートルほど岩石が隆起していて、その岩石の間を縫って川が流れている。

 近世以降は、その特異な景観を愛でる文人墨客の来訪が絶えないという。

f:id:sogensyooku:20200123204301j:plain

闘龍灘

f:id:sogensyooku:20200123204344j:plain

 闘龍灘の北側に架かる橋から眺めれば、闘龍灘の全貌を目に収めることが出来る。

 闘龍灘の西岸には、駐車場や公園があり、そこから闘龍灘に入ることが出来る。

 闘龍灘の西側には、岩の間を縫って流れる水流がある。ここが自然に出来た水路なのか、人工的に拡張された水路なのかは分からない。

f:id:sogensyooku:20200123205540j:plain

闘龍灘西側の水流

f:id:sogensyooku:20200123205645j:plain

f:id:sogensyooku:20200123205732j:plain

f:id:sogensyooku:20200123205942j:plain

 なかなか独特な景観である。

 かつての加古川は、高瀬舟や筏による舟運が盛んであった。舟運には、浅瀬の開削工事が必要であった。

 工事は二期に渡って行われた。第一期工事は、文禄三年(1594年)に生駒玄蕃の命で行われたもので、滝野から高砂までの浅瀬の岩石を除去し、水路を掘った。この工事によって、滝野付近から高砂まで、舟で物資を運搬することが可能になり、河口から更に海路で大坂まで運ぶことが出来るようになった。

 この工事を請け負った阿江与助には、滝野船座の座本として五分の一銀徴収の特権が与えられた。

 闘龍灘の西岸には、阿江与助の銅像が建っている。

f:id:sogensyooku:20200123210702j:plain

阿江与助像

 第二期工事は、慶長九年(1604年)に、姫路藩池田輝政によって行われた。阿江与助と西村伝入斎が請け負った。

 滝野から上流までの開削工事で、丹波氷上郡本郷から滝野までが開通し、丹波から高砂まで、舟運が可能となった。加古川上流地域で伐採された木材なども筏で下流まで運ばれた。

 しかし、依然として、岩が立ちはだかる闘龍灘は難所であった。闘龍灘上流まで来た筏を一度解体して陸に上げ、闘龍灘下流で再び組みなおして川に浮かべていたのである。

 明治5年、多可郡石原の村上清次郎らが岩盤の掘削を政府に申し出て、翌年からフランス人技師ムースの指導で掘削工事が始まり、約1年で工事が完成した。こうして闘龍灘東側に掘割水路ができた。水路は長さ180メートル、幅8メートル、深さ4メートルであった。

 掘割水路が完成したことにより、筏を組みなおさずに直接闘龍灘を通すことが出来るようになった。

f:id:sogensyooku:20200123211735j:plain

掘割水路

f:id:sogensyooku:20200123211819j:plain

f:id:sogensyooku:20200123211900j:plain

f:id:sogensyooku:20200123212006j:plain

 人間の力で、これだけの岩を掘削したのは大したものだが、景観を損なわずに目的を達成したところがいい。

 加古川舟運は、明治時代になって自由競争の時代に入り、ますます発展したが、大正2年に高砂西脇間に播州鉄道が開通したことにより、交通の主力は鉄道になり、終焉を迎えた。

 加東市下滝野には、加古川舟運の資料を保存展示する、加古川流域滝野歴史民俗資料館がある。

f:id:sogensyooku:20200123212736j:plain

加古川流域滝野歴史民俗資料館

 私が訪れた時には、資料館は閉館していたが、資料館の前に、現在の闘龍灘にかかるコンクリート橋の前身だった檜材の掛梯子が置かれていた。

f:id:sogensyooku:20200123213047j:plain

闘龍灘に架かっていた掛梯子

 全長14.65メートル、幅1メートルで、昭和30年ころに上滝野漁業組合が、多可郡杉原谷の良質の檜材を大工に加工させて製作したものだそうだ。

 この掛梯子を使って、闘龍灘の上を行き来した人々がいたことを思うと、何だかほほえましくなる。

 闘龍灘から南東に走り、加東市上三草の三草こども園の近くにある、兵庫県指定文化財の中村家五輪塔を訪れた。鎌倉時代に建立されたもので、この塔の隣に今も続く中村家の先祖が建てた五輪塔である。

f:id:sogensyooku:20200123214122j:plain

中村家五輪塔

f:id:sogensyooku:20200123214208j:plain

 竜山石製で、梵字薬研堀されている。穏やかで安定した造りだ。保存状態がいいのは、長い間覆屋があったからだろうと推察されている。

 ここから東に1.5キロメートルほど行くと、永和元年(1375年)の銘がある地蔵摩崖仏がある。

f:id:sogensyooku:20200123214802j:plain

地蔵摩崖仏

 地蔵摩崖仏の隣には、二尊石仏がある。

f:id:sogensyooku:20200123215043j:plain

二尊石仏

 向かって右側が阿弥陀如来坐像、左側が地蔵菩薩立像である。二尊石仏には、銘はないが、蓮華座の様式から、地蔵摩崖仏と同じ南北朝期の作物とされている。

 今日は闘龍灘と加古川舟運について書いた。今となっては、河川を使った物流というものは、ほとんど目にすることがないが、明治時代までは、河川を行きかう船による交通は、かなり盛んだった。

 関東平野利根川や、新潟平野の阿賀野川、その支流や運河網などは、定期船によって結ばれていた。

 明治大正期の鉄道の発達が、河川を使った交通を終わらせた。戦後の自家用車の普及が、郊外の大型ショッピングモールの流行をもたらした。

 新たな交通方法の普及が、生活様式を変えていく。いいか悪いかは別にして、人間社会の変容というものは面白いものだ。