五峰山光明寺 後編

 光明寺塔頭群を抜けると、仁王門に到達する。

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仁王門

 仁王門は、元禄六年(1693年)に、山麓に建っていたものを移築再建したものである。

 昭和56年に、元の仁王門の部材を利用して、大規模に修復された。仁王門に据え置かれている阿吽一対の仁王尊像も、元禄時代のもので、霊験あらたかである。

 仁王門を潜ると、右手に文殊堂が見える。

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文殊

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 文殊堂は、天和二年(1682年)に再建されたもので、光明寺の建造物の中では最古のものである。

 昭和57年に屋根の葺き替え修理をし、その際に唐破風を増築した。そのため、堂々とした風格を持つ建物となった。

 文殊堂のご本尊は文殊菩薩坐像である。

 文殊堂の隣にあるのは、鎮守社である。

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鎮守社

 建立年代は不詳であるが、全山の鎮守として、熊野権現を勧請している。

 更に奥に進むと見えてくるのが常行堂である。

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常行堂

 常行堂は、嘉祥年間(848~851年)に、慈覚大師円仁により創立されたという。現在の建物は、元禄十四年(1701年)ころに再建されたものである。本瓦葺き、宝形造りである。堂内宮殿には、阿弥陀如来像と観音・勢至の両脇侍像が安置されている。

 更に進むと、梵鐘堂がある。

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梵鐘堂

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梵鐘

 梵鐘堂は、寛保二年(1792年)に再建された。梵鐘は、昭和33年に再鋳されたもので、東大寺の六角灯籠の妙音菩薩を写したものが鋳られている。私は梵鐘を突かなかったが、余韻が長く残る美しい法音を鳴らすそうだ。

 さて、梵鐘堂を過ぎると、ようやく目の前に本堂が現れる。

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本堂

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 前の本堂は、安政六年(1859年)に大火により焼失した。

 大正14年(1925年)に、当時の西洋建築の大家、武田五一博士の設計により再建された。鎌倉時代の様式で建てられた、銅板葺き、入母屋造りの重厚な建物で、国登録有形文化財となっている。

 内陣宮殿には、ご本尊である法道仙人作と伝わる千手十一面観世音菩薩像と、不動明王毘沙門天王の両脇侍像が祀られている。その他に法道仙人、聖徳太子弘法大師の尊像も祀られているそうだ。さながら日本仏教の立役者が一堂に会しているようである。一度拝観してみたい。

 こうして見ると、光明寺の伽藍は、江戸時代以降に再建されたものばかりである。それまでの光明寺の伽藍の様子は、よく分かっていない。おそらく、戦乱で焼けて、長い間荒廃したままになっていたのではないか。

 観応二年(1351年)2月、光明寺は合戦の舞台となる。

 南北朝の争乱は、北朝側の優勢で進んでいたが、足利尊氏実弟足利直義(ただよし)と、足利家の執事であった高師直(こうのもろなお)とが対立し、足利家は尊氏・師直派と直義派の二つに分裂する。この二勢力の争いが、観応の擾乱である。直義派は南朝と同盟を組んで尊氏派を圧倒する。

 観応二年、直義派の武将石堂頼房が、五千の兵力で光明寺に陣を敷いた。尊氏はこれを破るべく、一万余の兵力で光明寺を包囲した。両軍は当時山麓にあった仁王門付近で激突した。

 途中、天から無紋の白旗が降ってきた。当時白旗は八幡大菩薩の加護の印とされていた。両軍の将兵は、白旗が自軍に落ちてくるよう祈念を凝らした。白旗は、師直の陣に落ちてきた。師直は、これを奇瑞なりと喜んだ。

 しかし師直が白旗を拾ってみると、旗ではなくて20枚ほどの紙反故をつなぎあわせたものであった。そこには、「吉野山峰のあらしのはげしさに高きこずえの花ぞ散りゆく」「限りあれば秋も暮れぬと武蔵野の草はみながら霜枯れにけり」という二首の歌が書かれていた。

 高師直は、武蔵守である。「高」「散りゆく」「武蔵」「枯れ」という言葉が、師直には不吉であった。

 また、尊氏方について光明寺を包囲していた赤松則祐の子、朝範は、ある時冑を枕にして寝ていると、霊夢を見た。寄手(尊氏方)が城の垣楯に火を放つと、山城国八幡山大和国の金峯山から山鳩数千羽が飛来し、翼に水を浸して、櫓や垣楯に燃え移ろうとする火を消してしまった。

 朝範が則祐に夢のことを話すと、則祐は「この城には神明の加護がある。落とすことは出来ない」と語り、兵を撤収して、本拠地の白旗城に帰ってしまった。

 八幡山石清水八幡宮と、金峯山の金峯山寺は、高師直が焼き討ちした寺社である。「太平記」では、寺社を焼き討ちした高師直を、信仰心の薄い悪逆非道な武将として描いている。

 結局尊氏方は、光明寺を攻略できず包囲を解いた。

 その後尊氏は、高師直・師泰兄弟の出家を条件に直義と和睦したが、師直、師泰は、直義派の武将により暗殺される。

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光明寺合戦本陣跡

 本堂の裏には、石堂頼房が本陣を敷いた場所を示す光明寺合戦本陣跡の石碑があった。

 ところで、光明寺の合戦の歴史はこれに留まらない。文明十七年(1485年)には、嘉吉の乱で一度滅びた赤松惣家を再興すべく、播州に侵攻した赤松政則光明寺に陣を敷いて山名氏と争い、戦に勝利して播州の支配を回復した。

 こうして見ると、歴史上光明寺に陣を敷いた軍勢は勝利を収めていることになる。ここは軍神が宿る山なのかもしれない。

 しかし今は、そんな合戦の歴史がなかったかのように、山域は静かな霊気に包まれているのみである。