西脇市 荘厳寺 前編

 兵庫県西脇市黒田庄町黒田にある荘厳寺は、真言宗高野山派の寺院である。寺伝では、白雉年間(650~654年)に、法道仙人が開基したと伝わる。

 慶長年間(1596~1615年)に、徳禅上人が当山に入り、荒廃した寺を真言宗の寺院として再興した。盛時には参道に10もの塔頭が並んでいたそうだ。

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荘厳寺塔頭法音院

 荘厳寺は、黒田庄町黒田の集落の最奥にあり、山に抱かれるようにして建っている。寺域の最も低い場所には、現在唯一残る塔頭の法音院がある。弘化三年(1846年)の再建である。

 この荘厳寺が、近年にわかに脚光を浴びるようになったのは、黒田官兵衛孝隆(孝高)の出身地が、ここ黒田の集落であるという新説が世間一般に流布しだしたことによる。

 荘厳寺は、黒田官兵衛黒田庄町黒田の出であることを示す「荘厳寺本黒田家略系図」を所蔵し、荘厳寺の裏手の山上には、官兵衛出生地とされる黒田城址がある。

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法音院山門

 問題を整理するため、先ずは黒田官兵衛の出自についての通説を書く。

 福岡藩の初代藩主は、黒田官兵衛の子・長政である。福岡藩の公式な記録の「黒田家譜」は、寛文十一年(1671年)に三代藩主・光之の命により、貝原益軒が編纂を始めた。完成は元禄元年(1688年)である。

 「黒田家譜」によると、黒田家の出は、近江国伊香郡黒田村で、近江源氏の佐々木黒田判官宗清が黒田家の祖であるという。

 その後黒田家は、足利将軍家の怒りを買って所領を失い、同族を頼って、備前国邑久郡福岡に移住した。官兵衛の祖父重隆の代に播磨国に移り、赤松氏配下の御着城小寺政職に仕え、姫路城代になった。官兵衛の父職隆(もとたか)も姫路城代を継ぎ、官兵衛は姫路城で生まれた。

 司馬遼太郎の「播磨灘物語」も、「黒田家譜」の記載に全面的に依拠しており、これが通説として定着した。

 当ブログの今年1月18日「瀬戸内市 妙興寺 仲﨑邸」の記事に書いたが、備前国福岡の妙興寺には、官兵衛の曽祖父黒田高政の墓所がある。

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法音院

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法音院の石庭

 ところが、「黒田家譜」完成から約100年後の天明三年(1783年)、姫路城下の心光寺住職入誉が、現在の姫路市飾磨区妻鹿で官兵衛の父職隆の墓所を発見したと福岡藩に上申した。福岡藩役人が現地を調査の上、翌天明四年十月に墓所に廟屋をかけ、廟所整備を行った。

 福岡藩役人は、享和二年(1802年)に、現在の姫路市御着の地に官兵衛の祖父重隆の廟所を整備した。福岡藩がこの際に播磨で行った調査結果は、文政十二年(1829年)に「播磨古事」という書物にまとめられた。

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「黒田家略系図」展示場

 「播磨古事」によれば、福岡藩士は播磨国多可郡黒田村を訪れた。そして、そこで聞き取った内容を記録した。

 多可郡黒田村の伝承によれば、赤松円心の弟である赤松円光の子、七郎重光がこの地にあった黒田城に移り、黒田氏を名乗った。重光が黒田家の初代であるという。

 第八代城主黒田重隆の子に、治隆、孝隆の兄弟がいた。治隆は家督を継いで黒田城九代城主となったが、近隣からの攻撃により黒田宗家は滅亡した。この時孝隆は黒田城を脱出し、御着城主小寺職隆の養子となったという。この孝隆がすなわち官兵衛だという。

 「播磨古事」は、現在福岡市博物館に所蔵されている。「播磨古事」には、「福岡藩黒田家には、この(播磨に伝わる)ような記録や伝承はないが、今後調査する必要がある」と書かれているそうだ。

 更に文化六年(1809年)、多可郡に住んでいた黒田家と姻戚関係にあると伝わる家の子が、赤松円光から黒田孝隆までの歴代を記した系図を荘厳寺に奉納した。これが、「荘厳寺本黒田家略系図」である。

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黒田家略系図の冒頭

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黒田家略系図の末尾

 荘厳寺では、この「黒田家略系図」の写しを展示している。見ると、なるほど初代円光から、九代治隆と孝隆まで記載されている。

 通説では官兵衛の祖父である重隆が、播磨説では実は実父で、通説で官兵衛の実父とされる職隆が、播磨説では小寺家の人で、官兵衛の養父となっている。

 当ブログ令和元年9月8日の「姫路市御国野町」の記事で、福岡藩によって御着の地に建立された黒田家廟所を紹介したが、この廟所には、通説では官兵衛の祖父とされる重隆と、実母とされる明石氏の廟を並べて建てている。つまり、舅と嫁が並べて祀られていることになる。これは不自然である。どう見ても、これは夫婦として祀ってある。享和二年に黒田家廟所を建立した福岡藩役人は、播磨説に与して重隆を官兵衛の実父と考え、この廟所を建てたのかも知れない。

 ここまで書いて、通説と播磨説のどちらが正しいのか考えてみた。播磨人である私は、心情的に播磨説に与したいが、どう考えても播磨説の方が分が悪い。

 常識的に考えて、その家に伝わる伝承が最も信憑性がある。「黒田家譜」が編纂された17世紀後半は、黒田家の中に、まだ藩祖黒田官兵衛孝高、初代藩主黒田長政の記憶が鮮やかに残っていた筈である。官兵衛は、子の長政に、自分の祖父や実父がどんな人であったかを語っていた筈である。その藩主の家の伝承に反する内容が、藩の公式記録である「黒田家譜」に載る筈がない。つまり「黒田家譜」は、黒田家に伝わった伝承に最も近い筈である。

 一方播磨説は、官兵衛が没して約170年後に播磨を訪れた福岡藩士により「発見」された説である。「荘厳寺本黒田家略系図」に至っては、官兵衛没後約200年後に作成された系図である。

 官兵衛が生きていた時代に近い記録の方が信憑性があるのは、これまた当然である。

 歴史に新説が出ることは、面白いことである。それによって研究や調査が進み、事実が特定されていくのならば、歓迎すべきことである。

 世に事実は一つしかないので、通説と播磨説のどちらかは事実と異なることになる。どちらが事実かは分らないが、自分の祖父と実父が生きた事実を捻じ曲げる説を見て、草葉の陰で官兵衛は苦笑しているのではないか。