和気清麻呂続編 伝足利義政供養塔・日野富子墓

  「岡山県の歴史散歩」によれば、和気町田原井堰資料館の南東の山の斜面に、9世紀のたたら製鉄炉跡である、石生(いわぶ)天皇遺跡があるとのことだったが、案内標識もなく、発見することが出来なかった。

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石生天皇遺跡のある山

 遺跡のあるという山を撮影するにとどまった。この近辺でも良質の砂鉄が採れたのだろうか。

 和気町原には、国登録有形文化財の万代家住宅主屋がある。

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万代家住宅主屋

 写真中央の民家がそうである。現在も民家として使われており、当然見学は出来ず、遠くから写真撮影をした。

 明治5年(1872年)の建築で、木造瓦葺平屋建だそうだが、どう見ても2階建である。この地方独特の、屋根を二重にした平屋建の建物らしい。

 さて、更に西に進み、岡山県赤磐市に入る。赤磐市は、平成17年に、赤磐郡山陽町、赤坂町、熊山町、吉井町対等合併して出来た市である。赤磐市南部は、岡山市ベッドタウンになっている。

 赤磐市松木には、和気清麻呂広虫の墓と伝えられる江戸時代初期の宝篋印塔がある。

 伝和気清麻呂墓所として、赤磐市指定史跡となっている。

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和気清麻呂広虫の墓

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 和気清麻呂広虫は、平安京で亡くなった。清麻呂の墓は京都神護寺にあると言われている。

 清麻呂の骨は、地元である備前美作の地に分骨されたと伝わる。この場所にも、清麻呂広虫姉弟の分骨が埋葬されているのだろう。

 宝篋印塔は江戸時代のものらしいが、室町時代の宝篋印塔に比べて素朴な姿をしており、むしろこちらの方が古く感じる。

 ここから北上し、赤磐市佐古に行くと、八幡和気神社がある。

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八幡和気神社

 田んぼの中の小高い丘の上にある。小ぶりで素朴な神社である。

 社頭には、立派な備前焼狛犬があった。

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備前焼狛犬

 拝殿に漆喰の飾りがついていて、モダンであった。

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拝殿

 この神社は、延暦三年(784年)に和気清麻呂公が、豊前国宇佐八幡宮八幡神を勧請して創建したと伝えられる。

 清麻呂公は、神託を授かった宇佐八幡宮を厚く信仰していたことだろう。

 その後和気清麻呂公の第五子真綱が宮司となり、その子孫代々が宮司として近世に至り、縁故者相継ぎ現在に至っているそうだ。

 天文年間(1532~55年)に小野田城主の祖先小野田宗右衛門尉茂行が社殿を再興、寛文七年(1667年)に池田光政公が鳥居を寄進した。本殿は元和九年(1623年)・明暦二年(1656年)・寛文七年(1667年)に改築された。

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本殿

 なかなか簡素雄勁な本殿だ。皇統護持に尽くした和気清麻呂公の故郷を八幡神が見守っているような気がする。

 さて、赤磐市沢原に天台宗の自性院常念寺がある。

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自性院常念寺

 ここは、室町幕府8代将軍足利義政の御台所、日野富子墓所があると伝えられる。赤磐市指定史跡となっている。

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常念寺本堂

 なぜこの地に日野富子の墓があるのだろう。

 日野富子は、俗に日本三大悪女の一人と言われている。応仁の乱勃発の原因を作り、東軍西軍両陣営に高利で金を貸し付け、蓄財したとされている。一方で、夫義政、息子義尚に先立たれた不幸な女性でもある。

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足利義政供養塔、日野富子

 この地に住む沢原家には、さる都の高貴な女性の自画像が伝わっている。口伝では、小河御所様の自画像といわれている。

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伝小河御所様の自画像

 小河御所とは、足利義政の隠居邸の名である。室町の幕府邸が焼けた後、日野富子が移り住み、政治に意欲を失った夫義政に代わって、息子である9代将軍義尚を補佐するために政務を行った場所である。そのため富子は小河御所様と呼ばれた。

 寺伝によれば、文明十五年(1483年)、富子は、義尚と対立したため都落ちを決意し、赤松政則の家臣で幕府の所司代を務めていた浦上則宗を頼って、沢原に安住の地を求め、静寂な日々を送ることとなった。
 延徳元年(1489年)、義尚が25歳で陣中にて病没し、延徳二年(1490年)には、夫義政が病没した。

 富子はこの地に一寺を建立、小河山慈照院と命名し、宝篋印塔一基を建立して、夫とわが子の慰霊と念仏の日々を送った。則ち今の常念寺である。  

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足利義政供養塔

 足利義政供養塔とされる宝篋印塔は、花崗岩製で基礎の下に反花座(かえりばなざ)が敷いてあって格式が高い。

 明応五年(1496年)、富子は、57歳で自庵にて没した。都からの従者沢原氏によって、夫やわが子の供養塔の傍に埋葬されたとのことである。

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日野富子

 自画像の他に、この地には日野富子ゆかりの品とされる物が伝わっているらしい。

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日野富子ゆかりの品

 沢原に日野富子が移り住み、亡くなって埋葬されたというのは全て口伝で、文献には残っていないため、本当のところは分からない。

 歴史上の事実を徹底して追求することも大切なことである。一方で、事実の周りに漂う靄のような伝承も、それが長い間人々によって大事に伝えられている以上、尊重すべきものである。

 この墓の下に眠る人物が日野富子かそうでないか、詮索せずにおくのもいいのかも知れない。