田原井堰と田原用水

 岡山藩の土木工事の偉人、津田永忠が手掛けた土木工事の中で、元禄時代の1690年前後に施工され、昭和まで約300年に渡って実用に耐えてきたのが、田原井堰(いせき)である。

 井堰とは、水を他へ引いたり流量を調節するために、川水をせきとめる設備を指す。

 現在の岡山県和気郡和気町田原上には、吉井川の流量を調整する新田原井堰がある。

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新田原井堰

 新田原井堰は、昭和60年に完成した。それまでの間、吉井川の氾濫を防いできたのが津田永忠が施工した田原井堰である。

 吉井川は、流量の変化が大きく、昔から用水不足や、 洪水被害を繰返してきた。この吉井川の氾濫を抑え、ここから取水して下流の広大な水田地帯へ農業用水を送るため、田原井堰と田原用水が施工された。

 私も土木工事に関しては素人なので、井堰のイメージを伝えにくいが、同じ岡山藩が造った旭川の建部井堰が現在も未だ現役で使用されているので、その写真を掲げる。

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建部井堰(土木学会 選奨土木遺産のホームページより)

 建部井堰は、写真のような石組の井堰だが、川の流れに対して斜めに設置されている。こうして旭川の流れをある程度せき止めて、溜まった水の一部を大井手用水路に導き、下流の農業用水として利用している。

 田原井堰も、吉井川の中に石組の井堰を斜めに築いて、川の流れをある程度堰き止めて、溜まった水を田原用水に流し、18キロメートル下流の現在の岡山市東区瀬戸町の砂川まで導いていた。

 田原用水は、岡山平野南部の新田開発の農業用水としてなくてはならないものであり、岡山藩全体の収穫高を大幅に引き上げた。

 田原用水は、津田永忠の時代の前から引かれていたが、現在の形に完成させたのが津田永忠である。

 田原井堰は、昭和60年の新田原井堰建設の際に撤去されたが、新田原井堰の西側にモニュメントが残されている。

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田原井堰のモニュメント

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モニュメントの説明文

 田原井堰の全長は約500メートルに及び、約300年間実用に耐えてきたが、近代になって吉井川の水が工業用水や水道水として大量に使われるようになると、対応できなくなって引退した。

 田原井堰跡附田原用水一部は、岡山県指定の史跡となっている。

 和気町本には、和気町田原井堰資料館がある。

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田原井堰資料館

 田原井堰資料館は、田原井堰に関する資料を収集展示している。普段は閉館していて、事前に和気町歴史民俗資料館に連絡をしていなければ館内の見学はできない。私が訪れたのは月曜日で、歴史民俗資料館も閉館日だったので、館内の見学は出来なかった。

 しかし、資料館の外には、田原井堰に使われていた石を利用して復元されたモニュメントがあった。

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田原井堰の復元

 さて、田原井堰から取水された水は、田原用水を伝って下流の砂川まで流された。田原用水は、途中で小野田川と交差する。この小野田川を田原用水が越えるため、小野田川の上に水路橋が架けられた。それが田原用水水路橋(石の懸樋)である。

 石の懸樋は、昭和57年まで現役で使用されていた。国内最大級の石造の水路橋であった。

 昭和57年の小野田川の改修工事により撤去されたが、現在は岡山県赤磐市徳富に移築されて、岡山県指定重要文化財として保存されている。

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石の懸樋の構造

 石の懸樋は、図のように、小野田川の上を田原用水が越えるために造られた水路橋で、津田永忠が大坂の石工・河内屋治兵衛らに施工させ、元禄九年(1696年)ころに完成した。花崗岩製の石材を縦横に組み合わせ、石材の接合部分には、貝殻を混ぜた特殊な漆喰を使った。

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昭和57年の石の懸樋

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 写真のように、完成後約300年経った昭和57年になっても水漏れせずに使用されていたというのは驚きだ。この漆喰と石組の技術は相当なものだろう。

 移築復元された石の懸樋は、現在も独特の存在感を放っている。

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移築復元された石の懸樋

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 正直言って、元禄時代にこの石の懸樋を見た人たちは、目を瞠ったことだろう。

 今見ても「格好いい」と思える史跡である。大多府島の元禄防波堤を見ても格好いいと思ったが、人々の役に立つ土木工事設備は格好いい。

 田原井堰資料館の前には、石の懸樋の前後の田原用水路の構造を復元したものが展示されている。

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現在の田原用水は、小野田川の地下を通っているものと思われる。

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小野田川方面から流れる田原用水

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田原用水

 田原用水は、小野田川を越えて下流まで流れているが、その先には、岡山県指定史跡である「百間の石樋」がある。

 百間の石樋は、津田永忠が、「熊野の岸険(ほき)」と呼ばれた硬い岩盤を掘削して通水させた約180メートルの用水路である。石の懸樋と並んで難工事であったそうだ。

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百間の石樋

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 津田永忠は、岸険の岩盤を種油で焼いて開削したとされている。

 こうして下流まで流れた田原用水の水は、岡山平野の水田を潤し、人々の生活水準を上げた。

 人々の生活を支える土木工事設備は、見るからに格好いい。300年近く人々の生活を支えた田原井堰や石の懸樋は偉大な工事と言える。

 津田永忠の名は、私も史跡巡りを始めるまで知らなかったが、この偉大な建設家の功績は、もっと世間に知られてもいいのではないかと思う。