馬場から南に行けば三の丸の遺構がある。
参考までに、馬場の説明板に掲示していた城跡の縄張り図を出しておく。
神楽尾城は、永禄九年(1566年)以降、毛利方の城であったが、最終的に宇喜多直家の攻撃によって陥落した。秀吉の時代になって、廃城となったことだろう。
三の丸に向かって歩く。しばらく行くと、地面が馬場より少し高くなった場所に至る。三の丸の入口の虎口だろう。
先ほどの縄張り図によると、虎口の左右には櫓台があった。この道の左右に櫓が建っていて、上から兵士が侵入者に目を光らせていたことだろう。
三の丸は、広い曲輪である。
三の丸の南端に行くと、竪堀という縦に掘られた空堀がある。しかし、上から覗いても藪に覆われてよくわからない。
竪堀は、曲輪の下に縦に掘られた空堀で、これがあると曲輪に攻め上がる敵兵は、左右に散開出来なくなる。曲輪の上の守備兵は、飛び道具や槍で敵兵を竪堀に追い落とせばいいわけだ。
さて、引き返して本丸方面に進む。
本丸への登り口の脇には、武者溜と呼ばれる守備兵の待機場所がある。
本丸に向けて登っていく。途中切り岸がある。
また登り路の脇に、曲輪があったり、土塁があったりする。
本丸は、土で築かれた防御機構によって、何重にも守られている。
登っていくと、本丸の入口である虎口に至る。
虎口の脇には、物見櫓が置かれた曲輪がある。
この虎口から上がると、ついに本丸跡に到達する。
本丸跡の中心には、土で台形に築かれた展望台があり、その上に神楽尾城跡の説明を刻んだモニュメントと、神楽尾山の頂上を示す三角柱がある。
本丸跡には、ただ1本の桜が立つだけで、あとは綺麗に切り開かれていて、四囲の眺望を妨げるものがない。
この桜、散り始めていたがほぼ満開であった。いい時にこの木と出会ったものだ。いつもそうだが、史跡巡りをしていて印象的な樹木に出会うと、遥か昔からここで出会うのが決まっていたというような運命を感じる。ちょっと大げさだろうか。
それにしても絶景である。私が今まで訪れた城跡で、これほど眺望に恵まれた場所はない。
神楽尾山は、美作のほぼ中央にあり、標高は約308メートルである。展望台から四囲360°全方位を見渡すことが出来る。
南東側を見下ろせば、津山市街の全てが一望できる。津山城跡も小さく見える。
そこから視線を右側にずらせば、津山市街の南側にある神南備山がある。
北東側に目を転ずると、遠くに高い三つの峰が見える。
右から那岐山(1255メートル)、滝山(1197メートル)、広戸仙(1115メートル)である。
西側には、妙見山などの、標高400~600メートル台の山々がある。
北側には、最も奥に泉山(1209メートル)が見え、その右手前に虚空蔵菩薩を祀る萬福寺のある黒沢山がある。萬福寺はこの後に訪れた。
神楽尾城跡に登れば、美作の中心部全体を眺めることが出来る。なかなか贅沢な場所である。
美作の中心部を見晴るかせるということは、ここは美作の中では戦略上最も重要な拠点だったことになる。戦国時代には、まだ津山市街も出来上がってなかった。津山に城下町が形成されたのは、江戸時代に入ってからだ。
広大な風景に接するこで、心が一旦リセットされたような気になった。