神楽尾城跡 後編

 馬場から南に行けば三の丸の遺構がある。

 参考までに、馬場の説明板に掲示していた城跡の縄張り図を出しておく。

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神楽尾城跡の縄張り図

 神楽尾城は、永禄九年(1566年)以降、毛利方の城であったが、最終的に宇喜多直家の攻撃によって陥落した。秀吉の時代になって、廃城となったことだろう。

 三の丸に向かって歩く。しばらく行くと、地面が馬場より少し高くなった場所に至る。三の丸の入口の虎口だろう。

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三の丸の虎口

 先ほどの縄張り図によると、虎口の左右には櫓台があった。この道の左右に櫓が建っていて、上から兵士が侵入者に目を光らせていたことだろう。

 三の丸は、広い曲輪である。

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三の丸

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 三の丸の南端に行くと、竪堀という縦に掘られた空堀がある。しかし、上から覗いても藪に覆われてよくわからない。

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竪堀の跡

 竪堀は、曲輪の下に縦に掘られた空堀で、これがあると曲輪に攻め上がる敵兵は、左右に散開出来なくなる。曲輪の上の守備兵は、飛び道具や槍で敵兵を竪堀に追い落とせばいいわけだ。

 さて、引き返して本丸方面に進む。

 本丸への登り口の脇には、武者溜と呼ばれる守備兵の待機場所がある。

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本丸への登り口

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武者溜

 本丸に向けて登っていく。途中切り岸がある。

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切り岸

 また登り路の脇に、曲輪があったり、土塁があったりする。

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本丸への途中にある曲輪

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本丸への途中にある土塁

 本丸は、土で築かれた防御機構によって、何重にも守られている。

 登っていくと、本丸の入口である虎口に至る。

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虎口

 虎口の脇には、物見櫓が置かれた曲輪がある。

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物見櫓のある曲輪

 この虎口から上がると、ついに本丸跡に到達する。

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本丸跡

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 本丸跡の中心には、土で台形に築かれた展望台があり、その上に神楽尾城跡の説明を刻んだモニュメントと、神楽尾山の頂上を示す三角柱がある。

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モニュメントと三角柱

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神楽尾城跡の説明文

 本丸跡には、ただ1本の桜が立つだけで、あとは綺麗に切り開かれていて、四囲の眺望を妨げるものがない。

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本丸と桜

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本丸跡の桜

 この桜、散り始めていたがほぼ満開であった。いい時にこの木と出会ったものだ。いつもそうだが、史跡巡りをしていて印象的な樹木に出会うと、遥か昔からここで出会うのが決まっていたというような運命を感じる。ちょっと大げさだろうか。

 それにしても絶景である。私が今まで訪れた城跡で、これほど眺望に恵まれた場所はない。

 神楽尾山は、美作のほぼ中央にあり、標高は約308メートルである。展望台から四囲360°全方位を見渡すことが出来る。

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南東側津山市街方面

 南東側を見下ろせば、津山市街の全てが一望できる。津山城跡も小さく見える。

 そこから視線を右側にずらせば、津山市街の南側にある神南備山がある。

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南側神南備山

 北東側に目を転ずると、遠くに高い三つの峰が見える。

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那岐山の連なり

 右から那岐山(1255メートル)、滝山(1197メートル)、広戸仙(1115メートル)である。

 西側には、妙見山などの、標高400~600メートル台の山々がある。

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西側妙見山方面

 北側には、最も奥に泉山(1209メートル)が見え、その右手前に虚空蔵菩薩を祀る萬福寺のある黒沢山がある。萬福寺はこの後に訪れた。

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北側泉山方面

 神楽尾城跡に登れば、美作の中心部全体を眺めることが出来る。なかなか贅沢な場所である。

 美作の中心部を見晴るかせるということは、ここは美作の中では戦略上最も重要な拠点だったことになる。戦国時代には、まだ津山市街も出来上がってなかった。津山に城下町が形成されたのは、江戸時代に入ってからだ。

 広大な風景に接するこで、心が一旦リセットされたような気になった。

神楽尾城跡 前編

 沼弥生住居跡から西の方を見ると、津山市街の西側に聳える神楽尾(かぐらお)山が見える。

 神楽尾山は、標高308メートルで、山上に土で築かれた戦国の山城、神楽尾城跡がある。

 ここがなかなか印象的な城跡であった。

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神楽尾

 上の写真の丁度真ん中の、少し高くなったところが神楽尾山の頂上で、神楽尾城の本丸跡がある場所である。

 木が1本立っているのがかすかに見える。後に紹介する本丸跡に立つ桜の木である。

 神楽尾城跡に行くには、神楽尾公園に車を駐車していくのが最も堅実だが、私はもう少し上まで車で上がって、溜池の側に車をとめてそこから歩いた。

 しばらく行くと城跡への登り口がある。

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神楽尾城跡への登り口

 また、登り口のすぐ横に登山案内図がある。

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神楽尾城跡登山案内図

 神楽尾山の名前の由来については、江戸時代の美作の地誌「作陽誌」にはこう書いてあるそうだ。

 神楽尾山の頂上に、はるか昔に天劔(あまつるぎ)神社という社が祀られていた。毎晩、天劔神社から神楽を演ずる響きが聞こえてきた。しかし見に行っても誰もいない。ある人が、「神々が毎夜集って神楽を演じておられるのだ」と言ったことから、いつしかこの山は神楽尾山と呼ばれるようになったという。

 神楽尾城は、「太平記」にも出てくるそうだ。室町時代に入ると、播磨の赤松氏と山陰の山名氏がこの城を奪い合った。

 永禄九年(1566年)に毛利元就尼子義久を破ると、神楽尾城は毛利方の城となり、津山盆地を見下ろす拠点として、大蔵甚兵衛尉尚清と千場三郎左衛門が守った。

 さて登り始めてしばらく行くと、人工的に土を掘って作られた切り岸という道がある。

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切り岸

 戦国時代の城は、ほとんどが土を掘ったり盛ったりして造られた、土の城である。この道も、戦国の人達が削って造った道だろう。何も知らなければただの山道だが、一度土製の戦国山城の魅力にはまると、こんな道を歩くだけで気分が高揚してくる。

 この切り岸の左右の山中に鉄砲隊や弓矢隊を配置すれば、なかなか堅い守りとなるだろう。

 しばらく行くと、これも土を削って造られた切り通しという道がある。

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切り通し

 さらに行くと、道が三方向に分岐する。

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分岐する道

 ここを真っ直ぐ西に行けば、城の中核である本丸と三の丸方面に行く。左右いずれに行っても、二の丸の曲輪(くるわ)がある。

 曲輪とは、山を削って平らにした台形の削平地で、曲輪を石垣や土塁で囲んで防御設備とした。

 この道を見て分かるように、城の主要部分である本丸方面に行くには、左右を二の丸の曲輪に挟まれたこの狭い道を突っ切っていかなければならない。

 まず、この三叉路を左(南)に行ってみる。

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二の丸の曲輪

 南に行くと、二の丸の曲輪があるが、正面に土塁が見えてくる。 

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土塁

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土塁の上部

 戦闘では、上に立つ者の方が有利である。土塁の上に守備兵が立って、寄せ手を攻撃したことだろう。

 土塁の上に立って、山頂(北)方向を見ると、本丸跡に立つ桜の木が見える。

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神楽尾山頂上と桜の木

 土塁から南を眺めると、曲輪が広がり、その奥に櫓台がある。

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土塁南側の曲輪

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櫓台

 さて、先ほどの三叉路に戻り、今度は右(北)に行くと、二の丸北側の曲輪がある。

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二の丸北側の曲輪

 戦国山城は、土で築かれているが、曲輪の上に見張り台である櫓を築き、木製の柵や楯で囲んで守った。

 曲輪を石垣で防備し始めたのは、安土桃山時代になってからである。江戸時代に入ると、城は平地に築かれるようになった。

 但馬の竹田城のように、山上に石垣がある山城は、「新しい城」と認識した方がいい。

 そう思えば、石垣のない神楽尾城跡は、ロマンあふれる土づくりの戦国山城の遺構である。

 さて、三叉路に戻り、今度は真っすぐ西に歩く。本丸と三の丸方面である。

 今度は土橋がある。土橋は、道を残して左右を掘って空堀にしたものである。

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土橋

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 これでは大軍で攻めても、少しづつの戦力しか前進させられない。

 更に進むと、道の脇を掘った泥田堀の跡がある。

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泥田堀の跡

 今は堀が藪に覆われて分からなくなってしまったが、当時は堀を掘って、中を泥濘にして敵を待ち構えていたことだろう。

 更に進むと、林間の小径になる。

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本丸、三の丸への道

 この道を抜けると、本丸と三の丸に分岐する地点に出る。

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本丸と三の丸との分岐地点

 この分岐地点は、広い空間になっている。馬場と呼ばれる削平地で、騎馬部隊が待機したり、乗馬の練習をした場所だろう。

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馬場

 土で築かれた戦国の山城は、同じく土で築かれた建造物である古墳と似たような魅力がある。

 関東の北条氏が築いた、小田原城の巨大な防御機構は、大半が土で築かれたものであったらしい。

 小田原城の遺構を早く見学したいものだが、播磨から出発して、徐々に遠方に向けて史跡巡りをしているので、関東に到達する前に私の命が尽きるだろう。

 何にしろ、これからも戦国の山城を数多く踏破したいものだ。

沼弥生住居跡群

 岡山県津山市沼にある沼弥生住居群跡は、弥生時代中期から弥生時代後期にかけての集落の遺跡である。

 昭和27年から昭和33年にかけて、5次にわたる発掘調査が行われた結果、竪穴住居5棟、長方形竪穴遺構1基、土坑1基、掘立柱建物3棟の跡が確認された。

 現在この遺跡は、史跡公園として整備され、昭和30年に復元された竪穴住居1棟が建っている。

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沼弥生住居跡群

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 遺跡は津山盆地を見下ろす丘陵上にある。ここでふと疑問に思ったのだが、弥生時代の食料生産の主力は、水稲耕作である。このような丘陵上だと、川から水を引いてくる灌漑農業が出来ない。かといって、雨水のみに頼っての稲作では、生産量に限りがある。

 恐らくこの丘の西側を流れる宮川沿いの低地に田を作り、住居はこの高台に作ったのだろう。高台に住居を建てたのは、洪水から身を守るためだったのだろうか。

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沼弥生住居跡群沼のジオラマ

 津山盆地には、紀元前3世紀に水稲耕作が伝わったとされている。

 農業には水が要る。天水(雨水)だけに頼る農業では、作物は僅かにしか収穫できない。

 水路を築いて川や湖などから田に水を引く灌漑農業を行うことで、作物の生産量を飛躍的に増加させることができる。

 農作物の生産量が増えると人口が増えるが、農業生産性が高くなると、1人が生産した作物で、1人以上の人間を食べさせることが出来るようになる。更に穀物を貯蔵して財産とし、貨幣のように物々交換に使うことが出来るようになる。

 そうすると、食料生産以外のことを仕事に出来る人が出てくる。「職業」の誕生である。

 世界四大文明も、灌漑農業をしやすい大河川の側に出来た。日本の弥生時代古墳時代の集落跡も、基本的に河川の近くに集中している。

 灌漑農業が、食料の余剰を生み出し、職業と財産を誕生させ、文明を作った。

 そう思えば、普段何気なく見ている農業用水路や溜池の偉大さが分かる。これらの設備は、我々の命をつないでいるのだ。

 さて、沼弥生住居群で発掘された住居跡は、柵で囲まれている。

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住居跡

 また、集落の中心には、長方形の建物跡があった。集落の共同作業場のようなものだったのだろう。

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長方形遺構

 農業に狩猟にしろ、人間は共同作業をすることでより多くの収入を得ることが出来る。人間は、どこまで行っても集団で行動するように出来ている。

 復元された竪穴住居は、多少痛んでいたが、垂木の放射状の組み合わせが見事であった。

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復元された竪穴住居

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竪穴住居の炉と床

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柱と梁、垂木

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垂木の放射状の組み合わせ

 この竪穴住居は、6本の柱に梁をかけ、その周りを垂木で囲んでいるが、垂木の頂上付近が放射状に組み合わされている。このような竪穴住居の屋根は初めて見たが、こうした方が風や揺れに強いのだろう。

 茅葺の技術は難しいかも知れないが、竪穴住居は、頑張れば日曜大工で作れそうに思えてくる。

 眺めのいい高台に余った土地があれば、竪穴住居を作ってみて、週末はそこで過ごすという生活も面白いかも知れない。

 沼弥生住居跡群の隣には、津山市内の遺跡から出土した遺物を展示する津山弥生の里文化財センターがある。

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津山弥生の里文化財センター

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 私が訪れた日は休館日であった。しかし、出入口のガラス越しに、美作の古墳からよく発掘される陶棺を見ることが出来た。

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陶棺

 沼弥生住居跡群の駐車場にあった説明板に、津山弥生の里文化財センターの展示品の写真が掲示してあった。

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展示されている弥生土器

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沼弥生住居跡から発掘された遺物

 今回は、弥生時代の集落跡を紹介したが、弥生時代水稲耕作が日本全国に広がり、灌漑農業も行われるようになって、食料の収穫量と人口が大幅に増えた時代であった。

 同時に食料の余剰をベースにして社会の分業が進み、その結果各地にクニが出来、後の大和王権発祥の礎が築かれた時代である。

 社会が大きく変貌する原因の最たるものは新しい技術が導入されることだが、ネット環境が劇的に整備されつつある現代も、後世から見れば社会が大きく変貌した時代と見なされることだろう。

美作総社宮

 美作国府跡の西側にある亀甲山という小高い丘の上に、美作国65郷の全ての社の神々を合祀する美作総社宮がある。地名では津山市総社になる。

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美作総社宮鳥居

 日本各国に一社は、名に「総社」とつく神社がある。

 国庁に赴任した国司は、国中の神社に参拝するのを重要な務めとしていたが、平安時代に入って、国中の神社に参拝するのを一回の参拝で済ませるため、国庁の近くに国中の神々をまとめて祀った神社を建立した。それが総社である。

 美作総社宮も美作国府跡のすぐ近くに建立されている。

 私の住む播磨の国府跡は、まだ発掘されていないが、播磨国総社と呼ばれる射楯兵主神社が姫路城の南東にあるので、播磨国府もその近くにあったものと思われる。

 国司は、総社の祭神の神意を奉じて国の統治方針をたてていたという。まるで神権政治だ。

 美作総社宮の本殿は、中山造という美作地方独特の様式で、現在は国指定重要文化財となっているが、戦前の文化財制度では国宝であった。

 鳥居の脇に、「当社本殿 国宝」と彫られた石柱が建っている。

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「当社本殿 国宝」と彫られた石柱

 戦前の日本で、国宝に指定された総社の建物は、全国でここだけだという。

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美作総社宮参道

 美作総社宮の参道には、散り始めた桜が並んでいた。葉がわずかに出始めた桜もいいものだ。

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参道の桜

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 参道から亀甲山に上る石段の前には、少しとぼけた表情の狛犬がいる。

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美作総社宮のある亀甲山

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石段前の狛犬

 石段を上ると、目の前に拝殿が現れる。拝殿の背後には、国指定重要文化財の豪壮な本殿が建つ。

 拝殿は銅板葺きの簡素な建物だ。

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拝殿

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 社伝では、美作総社宮の創建は欽明天皇二十五年(564年)とされ、ここより1キロメートル西の地に大己貴(おおなむち)命(大国主命)をお祭りしたのが始まりだという。

 和銅六年(713年)に備前国から美作国が分立し、この地に国府が出来た際、国司が亀甲山に社を移し、美作国天神地祇全てを祀る総社とした。

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拝殿と本殿

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本殿

 社伝では、美作国が出来てすぐに美作総社宮が建ったとされているが、実際のところは、他の国の総社と同じく、平安時代に建立されたのではないか。

 鎌倉時代に入って、美作国府が衰亡した後も、美作総社宮は、美作一宮の中山神社、美作二宮の高野神社と並んで、美作三大社の一つとして広く尊崇された。

 今の本殿は、永禄十二年(1569年)に毛利元就が建てたとされ、明暦三年(1657年)に津山藩二代目藩主森長継が大修理を加えたという。

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本殿向拝

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虹梁の彫刻

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 最近では、昭和7年に解体修理が行われた。

 本殿は、桃山時代の特徴を残した豪壮な建物である。

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蟇股の彫刻

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虹梁と扁額

 本殿正面に掲げられた扁額には、「正一位総社大明神」と書かれている。明暦年間の再建時の扁額だろう。

 何度も修理されている本殿だが、永禄時代の部材をそのまま使い続けているのであれば、かなりの時を経た木造建築物ということになる。

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背後から見た本殿

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側面から見た本殿

 本殿の木材の色が、飴色のようになっている。古く大きな木造建築物は、本当に魅力的だ。

 今まで私は、播磨国総社と呼ばれる射楯兵主神社備前国総社宮を参拝した。美作総社宮は、私が参拝した3つ目の総社宮になる。

 これから各地の総社も訪れることになると思うが、それぞれの国ごとの違いも見えてくるだろうか。

美作国府跡 

 鶴山八幡宮から北上し、津山市総社にある国府台寺を訪れた。

 この寺は真言宗の寺院であるが、今国府台寺が建つ場所が、かつての美作国府跡だとされている。

 国府とは、国の行政庁である国庁が置かれた町を指す。今の県庁所在地のようなものだ。

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国府台寺

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 国府台寺は、高野山聖無院の末寺で、明和六年(1768年)に創建された聖観音寺がその前身である。

 聖観音寺は、明治18年(1885年)に当地に移転し、国府台寺と称するようになった。

 国府台寺は、聖観音菩薩像を本尊として祀っている。

 国府台寺の近くには、国府跡という名のバス停もある。 

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国府跡のバス停

 現在の岡山県全域と広島県東部は、古代には吉備国と呼ばれていた。

 それが7世紀後半に備前、備中、備後の三つの国に分割された。

 更に和銅六年(713年)に、備前国のうち北方の六郡が分離して美作国が成立した。    

 美作が分立したのは、備前と道路体系が異なる事が理由の一つだとされている。

 美作国が出来ると、都から美作に通る美作街道が整備された。

 律令体制下では、各国に国府が置かれ、中央から国司が赴任して統治した。美作国府は、苫田郡衙跡に建てられたそうだ。

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美作国府跡の碑

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 昭和47年の発掘調査で、美作国府跡からは、かつて国府で使用された井戸や墨書土器、円面硯、瓦などが出土した。

 昨年8月30日に津山郷土博物館を訪れた際に撮影した美作国府跡出土品の写真を、ようやくここで紹介できる。

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美作国府の井戸の模造品

 上の写真は、美作国府跡から出土した井戸の模造品である。正方形の井戸枠と、丸太をくり抜いて作った円筒形の井筒から成っている。

 奈良時代の井戸の典型的な形であるらしい。

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円面硯等の出土品

 上の写真の上側中央の円面硯が、美作国府から出土したものである。国府は徴税や訴訟を取り扱った行政・司法庁の所在地で、そこでは様々な事務作業が行われていた。

 国府では、筆や硯や墨などの文房具がよく使われていたことだろう。

 津山郷土博物館には、平城宮跡長岡京跡から出土した木簡の複製品が展示されていた。

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美作国から都に宛てられた木簡

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 木簡の内容を読むと、どうやら美作国府から都に宛てたもののようだ。美作国から都に進上する租税(食料や労働力)の内容を記載している。

 奈良時代には、短い文書を記載するのにまだ木簡を使っていたようだ。当時紙はまだ高価であったし、破れることのない木片を使用した方がよい時もあったろう。

 美作国府には、平城宮と同様の瓦が葺かれていたという。当時の軒丸瓦が美作国府跡から出土している。

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美作国府出土の軒丸瓦

 当時の日本の国府の建物の多くが瓦葺きでなかったにも関わらず、美作国府に瓦葺き建物が建てられたことを考えると、朝廷は美作を重視していたようだ。

 美作はたたら製鉄が盛んな地域であった。それも朝廷が美作を重視した一因だろう。

 美作国府は、鎌倉時代前半に当る13世紀前半に廃絶したとされている。

 律令制下では、日本全国で収獲された作物は、税として朝廷に納められたが、鎌倉幕府の成立により、主に東国の国府の収入の半分は、鎌倉幕府が置いた守護・地頭に治安維持のための兵糧という名目で徴発されるようになった。

 鎌倉幕府が成立したころは、西日本の徴税権はまだ朝廷が握っていた。

 だが承久三年(1221年)に発生した承久の乱で、朝廷が幕府に敗北した後、西日本各地に御家人が派遣され、西日本の朝廷の税収も幕府に横取りされるようになった。

 武士が権力を握ると、各国の徴税を行っていた国府国司の歴史的役割が終わった。

 美作国府が衰亡したのも、承久の乱の後のことだろう。

 武士が徴税権を朝廷に返すことになった明治の廃藩置県は、朝廷による徴税の復活であり、その名の通り王政復古であった。

 我々が今住んでいる都道府県の成立にも、歴史のドラマはあるわけだ。

岡山県立津山高等学校本館 十六夜山古墳 鶴山八幡宮

 衆楽園から西に走り、津山市椿高下にある岡山県立津山高等学校を訪れた。訪れた、と言っても校内に入ったわけではない。

 津山高等学校の本館は、明治33年(1900年)に竣工した旧岡山県津山尋常中学校の本館である。

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岡山県立津山高等学校本館

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 津山高等学校本館は、木造二階建て、寄棟造り、桟瓦葺きで、正面玄関にポーチを設け、中央に時計の付いた塔屋を備えている。

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岡山県立津山高等学校本館

 明治時代の洋館は、日本中に数多く残っているが、近代日本が産声を上げたことを記念する建物群として、後世にも尊重されることだろう。

 岡山尋常中学校は、明治28年(1895年)に開校となったが、初代校長は、水戸学の研究家で、夏目漱石正岡子規秋山真之とも交友のあった菊池謙二郎であった。

 岡山尋常中学校開創期の教師としては、明治の漢学者で文芸評論家の田岡嶺雲がいる。田岡は土佐出身で、自由民権運動の影響を受け、反戦、反資本主義、女性解放といった社会主義的評論を発表し、著作のほとんどが発禁処分となった。

 その他の教師に、津山出身の俳人で、正岡子規の友人の大谷是空がいる。

 明治は教育界も熱かったようだ。

 さて、この津山高等学校の敷地内に、十六夜山古墳がある。丁度本館裏にある。

 5世紀末に築造された前方後円墳で、墳長は約60メートルあるそうだ。

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十六夜山古墳

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 高校の敷地には入れないので、古墳にこんもり茂った木々を外から写すしかなかった。

 5世紀後半は、允恭天皇雄略天皇の時代で、皇室が全国に版図を広げつつあった時代である。

 この大きな前方後円墳が津山盆地の中央に築かれたということは、5世紀後半には、大和王権と関係の深い豪族がこの地を支配していた証であろう。

 それにしても、母校に前方後円墳があると、どんな気持ちになるのだろう。

 さて、津山高等学校を後にして、津山市山北にある鶴山八幡宮を訪れた。

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鶴山八幡宮

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鳥居前の狛犬

 鶴山八幡宮は、元々は現在津山城跡となっている鶴山に鎮座していた。

 慶長十年(1605年)、初代津山藩森忠政が、鶴山に津山城を築くにあたって、鶴山八幡宮を城南の覗山に移した。更に慶長十三年(1608年)に現在地に移した。

 祭神は、八幡大神である誉田別(ほむだわけ)命、すなわち応神天皇である。

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山門までの石段

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山門

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裏から見た山門

 社殿は、寛永十二年(1635年)、寛文九年(1669年)に二代藩主森長継により修復されている。

 本殿は、津山の神社建築の主流である中山造である。美作国一宮の中山神社の社殿の形からこの名称がある。

 中山造は、方三軒の入母屋造りの正面に、一間の唐破風の向拝を付けたもので、津山地方独特の神社建築である。

 鶴山八幡宮では、本殿が国指定重要文化財に、拝殿、釣殿、神供所と末社薬祖神社社殿が岡山県指定重要文化財になっている。

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拝殿

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拝殿の向拝

 拝殿の後ろには釣殿と神供所があり、その先に中山造の本殿がある。

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釣殿

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本殿

 中山造の本殿には、雄渾という言葉が相応しい。

 この本殿の特徴は、向拝の虹梁や蟇股、軒を支える斗栱に施された彫刻である。昔は鮮やかに彩色されていたものと思われるが、年月と共に風化して、色彩が剝がれてしまっている。それでもこの彫刻は見事である。

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虹梁と蟇股の彫刻

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 三手先の斗栱は、尾垂木の龍の彫刻と、龍頭に乗って屋根を支える鬼の彫刻が面白い。

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斗栱の彫刻

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 本殿の回廊は、簡素なしつらいである。

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本殿側面

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本殿の回廊

 古い木組みの建物は、味があっていいものである。

 本殿の裏には、岡山県指定重要文化財となっている末社薬祖神社がある。築造年代は不明だが、桃山時代の様式を残しているという。

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薬祖神社

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薬祖神社の蟇股

 この薬祖神社も鶴山から移されたものである。小さなお社であるから、簡単に移築出来たことだろう。

 ひょっとしたら、鶴山にあった社殿が、そのままここに建っているのではないかと想像してみた。

 薬祖神社の社の下には、最近気になっている大黒天の石像があった。

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大黒天の石像

 大黒天の石像がここにあるということは、薬祖神社の祭神は大国主命だろうか。

 今回の津山の旅で、この鶴山八幡宮を入れて、四棟の中山造の本殿を見学することができた。

 神社の本殿の様式からも、その地に祭られた神々の系譜や由来を読み解くことが出来る。

 津山は山陽や出雲と違う文化圏にあったようだ。

衆楽園 後編

 衆楽園内の散策を続ける。余芳閣の近くには、池に臨んで枝垂桜が咲いている。

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枝垂桜

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 明治の廃藩によって、津山藩は廃絶となったが、その際園内の建物の多くは解体された。

 明暦年間の創園当時から残っているのは、藩主の休憩所であり、客人と対面した建物であった余芳閣である。

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余芳閣

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竹の格子

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座敷

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池の対岸から眺めた余芳閣

 余芳閣は、茅葺入母屋造り二階建ての建物と、広大な瓦葺き平屋建ての建物で成り立っている。

 二階建ての方は、二階に手摺を巡らしている。今は雨戸に覆われているが、雨戸を開け放てば、二階からの園の眺めはかなり良いものだろう。江戸時代には、遠く津山城天守も遠望出来たろう。

 余芳閣の前に立つと、南北に長い園池の北側が目に入る。

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園池の北側

 余芳閣から北に歩くと、丈高い松が生えていて、その下に山口誓子の句碑がある。

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丈高い松

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山口誓子の句碑

 「絲桜 水にも地にも 枝を垂れ」とあるが、先ほどの枝垂桜(絲桜)のことを指しているのだろうか。

 ここから北に歩くと、衆楽園北側の出入口に至る。北側の出入口の脇から水が園内に導き入れられている。

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北側の出入口

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園内に導き入れられる水

 衆楽園を巡る水は、最初細い溝を流れているに過ぎないが、それが園内の広大な池を形作り、池の周辺の様々な景色を生み出している。

 土地に合わせていかようにでも形を変える水の柔軟なあり方は、生き方の参考になるような気がする。

 さてこの細い流れが、南下するにつれて徐々に広がって来る。

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石橋

 途中、園が出来た当初からあると思われる石橋を潜り、楓の下を巡り、池に注いでいく。

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北側の人口島

 稲妻形の木橋を越えると、園で最も北側にある人工島に渡ることが出来る。北側の人工島には、桜が美しく咲いていた。

 北側の人口島からは、その南側にある北から二番目の人工島を眺めることが出来る。二番目の人工島には、最近再建された清涼軒がある。

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清涼軒のある人口島

 木橋を渡って、北側の人口島から出て、二番目の人口島に向かう。

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北側人口島南側の木橋

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二番目の人口島に渡る橋

 二番目の人口島に渡る橋からは、その南側にある北から三番目の小さな人口島を眺めることが出来る。三番目の人工島は、渡ることの出来ない小さな島である。

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北から三番目の人口島

 このように、衆楽園では、色んな形の橋を渡りながら、人口島を散策することが出来る。なかなか贅沢な散歩である。

 北から二番目の人口島には、茶室清涼軒がある。

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清涼軒

 粗末な茶室で池を眺めながら客人と茶を喫するのは、客人に対する当時最高のもてなしであろう。

 北から二番目の人口島からは、余芳閣方面に向けて橋が架かっていて、そちらに渡ることも出来る。

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余芳閣方面に渡る橋

 さて、北から二番目の人工島から南に歩くと、小さな石橋がある。小さな石橋を渡ると、衆楽園を代表する景観である、茶室風月軒の前に至る。

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小さな石橋

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茶室風月軒

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 風月軒は、龍野藩の庭園聚遠亭の茶室ほどではないが、池に少しだけせり出している。

 風月軒の隣に枝垂桜があるが、少し枯れているように見える。この桜が満開であれば、さぞ美しかったであろう。

 風月軒のある辺りからは、北から四番目の人工島、つまり昨日紹介した一番南側の人口島を眺めることが出来る。

 風月軒は閉まっているが、茶室から眺める景色もこれと同じであろう。

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風月軒辺りからの眺望

 この景色の上に月が輝くと、幻想的に見えることだろう。

 池泉回遊式庭園という名称を耳にするが、池を経めぐり散策する庭園の楽しさを今回味わうことが出来た。

 この日本の庭園の眺めは、和歌や茶、禅といった日本文化と通じるものがあると思う。日本庭園は、昔の日本人の精神生活を地上に形として表したものであると考えられる。これが、当時の人たちの最高の贅沢なのだ。

 もし、日本人とはどういう人たちかということを、日本語を理解しない外国人に知ってもらうのに、どうすればいいかという問いがあるとすれば、日本庭園を見せるというのが最良の答えだと考えられる。

 季節と植生と風景の変化に富んだ日本列島に住んでいるということは、とてもありがたいことである。