この寺は真言宗の寺院であるが、今国府台寺が建つ場所が、かつての美作国府跡だとされている。
国府とは、国の行政庁である国庁が置かれた町を指す。今の県庁所在地のようなものだ。
国府台寺は、高野山聖無院の末寺で、明和六年(1768年)に創建された聖観音寺がその前身である。
聖観音寺は、明治18年(1885年)に当地に移転し、国府台寺と称するようになった。
現在の岡山県全域と広島県東部は、古代には吉備国と呼ばれていた。
それが7世紀後半に備前、備中、備後の三つの国に分割された。
更に和銅六年(713年)に、備前国のうち北方の六郡が分離して美作国が成立した。
美作が分立したのは、備前と道路体系が異なる事が理由の一つだとされている。
美作国が出来ると、都から美作に通る美作街道が整備された。
律令体制下では、各国に国府が置かれ、中央から国司が赴任して統治した。美作国府は、苫田郡衙跡に建てられたそうだ。
昭和47年の発掘調査で、美作国府跡からは、かつて国府で使用された井戸や墨書土器、円面硯、瓦などが出土した。
昨年8月30日に津山郷土博物館を訪れた際に撮影した美作国府跡出土品の写真を、ようやくここで紹介できる。
上の写真は、美作国府跡から出土した井戸の模造品である。正方形の井戸枠と、丸太をくり抜いて作った円筒形の井筒から成っている。
奈良時代の井戸の典型的な形であるらしい。
上の写真の上側中央の円面硯が、美作国府から出土したものである。国府は徴税や訴訟を取り扱った行政・司法庁の所在地で、そこでは様々な事務作業が行われていた。
国府では、筆や硯や墨などの文房具がよく使われていたことだろう。
津山郷土博物館には、平城宮跡や長岡京跡から出土した木簡の複製品が展示されていた。
木簡の内容を読むと、どうやら美作国府から都に宛てたもののようだ。美作国から都に進上する租税(食料や労働力)の内容を記載している。
奈良時代には、短い文書を記載するのにまだ木簡を使っていたようだ。当時紙はまだ高価であったし、破れることのない木片を使用した方がよい時もあったろう。
美作国府には、平城宮と同様の瓦が葺かれていたという。当時の軒丸瓦が美作国府跡から出土している。
当時の日本の国府の建物の多くが瓦葺きでなかったにも関わらず、美作国府に瓦葺き建物が建てられたことを考えると、朝廷は美作を重視していたようだ。
美作はたたら製鉄が盛んな地域であった。それも朝廷が美作を重視した一因だろう。
美作国府は、鎌倉時代前半に当る13世紀前半に廃絶したとされている。
律令制下では、日本全国で収獲された作物は、税として朝廷に納められたが、鎌倉幕府の成立により、主に東国の国府の収入の半分は、鎌倉幕府が置いた守護・地頭に治安維持のための兵糧という名目で徴発されるようになった。
鎌倉幕府が成立したころは、西日本の徴税権はまだ朝廷が握っていた。
だが承久三年(1221年)に発生した承久の乱で、朝廷が幕府に敗北した後、西日本各地に御家人が派遣され、西日本の朝廷の税収も幕府に横取りされるようになった。
武士が権力を握ると、各国の徴税を行っていた国府と国司の歴史的役割が終わった。
武士が徴税権を朝廷に返すことになった明治の廃藩置県は、朝廷による徴税の復活であり、その名の通り王政復古であった。
我々が今住んでいる都道府県の成立にも、歴史のドラマはあるわけだ。