神楽尾城跡 前編

 沼弥生住居跡から西の方を見ると、津山市街の西側に聳える神楽尾(かぐらお)山が見える。

 神楽尾山は、標高308メートルで、山上に土で築かれた戦国の山城、神楽尾城跡がある。

 ここがなかなか印象的な城跡であった。

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神楽尾

 上の写真の丁度真ん中の、少し高くなったところが神楽尾山の頂上で、神楽尾城の本丸跡がある場所である。

 木が1本立っているのがかすかに見える。後に紹介する本丸跡に立つ桜の木である。

 神楽尾城跡に行くには、神楽尾公園に車を駐車していくのが最も堅実だが、私はもう少し上まで車で上がって、溜池の側に車をとめてそこから歩いた。

 しばらく行くと城跡への登り口がある。

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神楽尾城跡への登り口

 また、登り口のすぐ横に登山案内図がある。

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神楽尾城跡登山案内図

 神楽尾山の名前の由来については、江戸時代の美作の地誌「作陽誌」にはこう書いてあるそうだ。

 神楽尾山の頂上に、はるか昔に天劔(あまつるぎ)神社という社が祀られていた。毎晩、天劔神社から神楽を演ずる響きが聞こえてきた。しかし見に行っても誰もいない。ある人が、「神々が毎夜集って神楽を演じておられるのだ」と言ったことから、いつしかこの山は神楽尾山と呼ばれるようになったという。

 神楽尾城は、「太平記」にも出てくるそうだ。室町時代に入ると、播磨の赤松氏と山陰の山名氏がこの城を奪い合った。

 永禄九年(1566年)に毛利元就尼子義久を破ると、神楽尾城は毛利方の城となり、津山盆地を見下ろす拠点として、大蔵甚兵衛尉尚清と千場三郎左衛門が守った。

 さて登り始めてしばらく行くと、人工的に土を掘って作られた切り岸という道がある。

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切り岸

 戦国時代の城は、ほとんどが土を掘ったり盛ったりして造られた、土の城である。この道も、戦国の人達が削って造った道だろう。何も知らなければただの山道だが、一度土製の戦国山城の魅力にはまると、こんな道を歩くだけで気分が高揚してくる。

 この切り岸の左右の山中に鉄砲隊や弓矢隊を配置すれば、なかなか堅い守りとなるだろう。

 しばらく行くと、これも土を削って造られた切り通しという道がある。

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切り通し

 さらに行くと、道が三方向に分岐する。

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分岐する道

 ここを真っ直ぐ西に行けば、城の中核である本丸と三の丸方面に行く。左右いずれに行っても、二の丸の曲輪(くるわ)がある。

 曲輪とは、山を削って平らにした台形の削平地で、曲輪を石垣や土塁で囲んで防御設備とした。

 この道を見て分かるように、城の主要部分である本丸方面に行くには、左右を二の丸の曲輪に挟まれたこの狭い道を突っ切っていかなければならない。

 まず、この三叉路を左(南)に行ってみる。

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二の丸の曲輪

 南に行くと、二の丸の曲輪があるが、正面に土塁が見えてくる。 

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土塁

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土塁の上部

 戦闘では、上に立つ者の方が有利である。土塁の上に守備兵が立って、寄せ手を攻撃したことだろう。

 土塁の上に立って、山頂(北)方向を見ると、本丸跡に立つ桜の木が見える。

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神楽尾山頂上と桜の木

 土塁から南を眺めると、曲輪が広がり、その奥に櫓台がある。

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土塁南側の曲輪

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櫓台

 さて、先ほどの三叉路に戻り、今度は右(北)に行くと、二の丸北側の曲輪がある。

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二の丸北側の曲輪

 戦国山城は、土で築かれているが、曲輪の上に見張り台である櫓を築き、木製の柵や楯で囲んで守った。

 曲輪を石垣で防備し始めたのは、安土桃山時代になってからである。江戸時代に入ると、城は平地に築かれるようになった。

 但馬の竹田城のように、山上に石垣がある山城は、「新しい城」と認識した方がいい。

 そう思えば、石垣のない神楽尾城跡は、ロマンあふれる土づくりの戦国山城の遺構である。

 さて、三叉路に戻り、今度は真っすぐ西に歩く。本丸と三の丸方面である。

 今度は土橋がある。土橋は、道を残して左右を掘って空堀にしたものである。

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土橋

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 これでは大軍で攻めても、少しづつの戦力しか前進させられない。

 更に進むと、道の脇を掘った泥田堀の跡がある。

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泥田堀の跡

 今は堀が藪に覆われて分からなくなってしまったが、当時は堀を掘って、中を泥濘にして敵を待ち構えていたことだろう。

 更に進むと、林間の小径になる。

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本丸、三の丸への道

 この道を抜けると、本丸と三の丸に分岐する地点に出る。

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本丸と三の丸との分岐地点

 この分岐地点は、広い空間になっている。馬場と呼ばれる削平地で、騎馬部隊が待機したり、乗馬の練習をした場所だろう。

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馬場

 土で築かれた戦国の山城は、同じく土で築かれた建造物である古墳と似たような魅力がある。

 関東の北条氏が築いた、小田原城の巨大な防御機構は、大半が土で築かれたものであったらしい。

 小田原城の遺構を早く見学したいものだが、播磨から出発して、徐々に遠方に向けて史跡巡りをしているので、関東に到達する前に私の命が尽きるだろう。

 何にしろ、これからも戦国の山城を数多く踏破したいものだ。