天の浮橋から約150メートル南下した、南あわじ市榎列大榎列の集落の中に、屯倉(みやけ)神社跡がある。
屯倉とは、朝廷の直轄領のことである。ここで収穫された作物は、朝廷に納められた。屯倉には、朝廷に納める品物を保管する倉があった。
「日本書紀」の仲哀天皇二年の記事に、天皇が敦賀の気比神宮に行幸した際に、淡路の屯倉を定めたとある。およそ4世紀後半のことだろう。
淡路の屯倉では、倉を荒らす盗賊が多かったので、盗難防止のため、紀伊の日前(ひのくま)神宮の祭神・石凝姥(いしこりどめ)命を祀った。これが屯倉神社の創建である。
石凝姥命は、鏡作部の祖神で、天照大神が天の岩戸に籠った際に、天照大神をおびき出すための鏡を作った神様である。
屯倉神社ができると、倉を乱す者は大幅に減り、平穏になったという。
大榎列の集落には、別に日前神社が勧請されているが、明治45年に屯倉神社の祭神を日前神社に合祀するよう政令が出た。
屯倉神社の祭神を日前神社に移すと、大榎列の集落に災難が多発した。
住民はこれを祭神の崇りと恐れ、屯倉神社跡に祠を建てて再び祭神を祀った。
それ以来、集落は再び平穏になったという。
古代の朝廷の直轄地の跡が、まだこのような形で残っている。日本は歴史ある国だ。
屯倉神社跡から更に南下し、南あわじ市榎列小榎列にある府中八幡神社を訪れた。
府中八幡神社の参道の南端には、石造の鳥居がある。その隣に一葉塚と呼ばれる塚がある。
塚の上に芭蕉の門人・服部嵐雪の辞世の句を刻んだ句碑が建っている。
嵐雪は、承応三年(1654年)にこの小榎列に生まれ、江戸に出て松尾芭蕉に師事し、蕉門十哲に数えられた。宝永四年(1707年)に54歳で没した。
この句碑は、文化三年(1806年)の嵐雪百回忌に建立されたものである。
嵐雪の辞世の句、「一葉散る 咄(とつ)一葉散る 風の上」が刻まれている。
自分の死を風の上に葉が散るようなものだと詠んでいる。咄は、舌打ちの音を現わす。
一葉散る、ちぇっ、一葉散るよ、風の上に、ということか。この咄の一字がなければ、単に悟り澄ました句になったことだろう。自分が死ぬ前の舌打ちに、人間の意地が込められているような気がする。
さて、参道を北上すると府中八幡神社の神門がある。
この地には、大宝年間(701~704年)に淡路の国府が置かれた。
元明天皇の御代の和銅三年(710年)に、国府の氏神として国府八幡神社が創建された。
別名、府中八幡神社とも呼ばれたが、今ではこちらが社名として通っている。
神門は、寛永四年(1627年)に改築され、大正の末年に修復された。
拝殿は、寛永六年(1629年)に再興されたものである。
私が訪れた時、WBCの準決勝で日本代表が劇的逆転勝利を収めた余波か、拝殿前で小学生男子2名が野球をして遊んでいた。
拝殿は古びたいい建築だったが、その後ろの本殿は、最近新築されたと思われる瑞々しい木造銅板葺の建物だった。
拝殿に上がると、欅の柱が並ぶ吹き曝しの開放された空間であった。八幡神社の拝殿によくある建築様式である。
本殿は、慶長二年(1597年)に再興され、その後何度も修復されたようだ。
今の本殿は、建て替えられたばかりのような新しさである。古い木造建築物もいいが、こういう新しい木の香りが漂う木造建築もいい。
また、府中八幡神社には、毎年9月第一土曜日の秋祭りの神事の一つとして、ささら踊りが奉納される。
田楽の名残を留める風流踊りで、衣装、踊り方から、平安時代にまでさかのぼる踊りであると言われている。
今も地元の小学生たちによって継承されているという。
さて、八幡神社の隣には寺院があるという淡路島南部の慣例に違わず、府中八幡神社の隣にも賢光寺という寺院がある。
神社の東側にある賢光寺薬師堂には、平安時代末期の作と伝えられる高さ1.02メートルの木造薬師如来立像がある。
薬師如来立像は、兵庫県指定文化財になっている。こちらは拝観できなかった。
薬師堂の向かいには観音堂がある。観音堂には、江戸時代のものと思われる如意輪観世音菩薩像が安置されていた。
衆生を救うための方便を静かに考えておられる御姿だ。
三原平野は、昔から豊かな収穫があった地域だったのだろう。日本の国の中で、国府が置かれた場所は、大体その国の中で最も豊かな地域である。
豊かな地域には文化が生まれる。この辺りは、昔から文化の香りが豊かな地域だったと思われる。