安住寺集落から南下し、南あわじ市榎列上幡多(えなみかみはだ)の丘陵上にある大和大国魂(やまとおおくにたま)神社を訪れた。
この神社は、淡路国二宮とされている。淡路では、一宮の伊弉諾神宮に次いで社格が高い神社である。旧三原郡の神社の中で、唯一「延喜式」の名神大社に列している。
祭神は、大和大国魂神である。大和王権が淡路に進出する過程で、奈良県天理市にある大和坐大国魂神社(現大和神社)の祭神を勧請したという説もある。
また、「日本書紀」に出てくる御原の海人を統率した倭氏ゆかりの神社とも言われている。創建の由来は謎に包まれている。
私が大和大国魂神社を訪れた時、ビッグスクーターに乗った壮年の男性が颯爽と現れた。スクーターから降りて私に一礼して、鳥居の前で一礼し、長い参道を足早に歩いて行った。
その方は、拝殿前で大きな柏手を打って頭を下げておられた。参拝後すぐに立ち去ったところを見ると、観光客ではなく、日ごろからこのお社に参拝している地元の方なのだろう。地元の方が真摯に祈る姿を見て、私も清々しい気持ちになった。
当社の創建は謎に包まれているが、六国史の「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」にも社名が見えているので、平安時代初期には存在した古社であることは間違いない。
「一遍聖絵」によれば、正応二年(1289年)に一遍上人一行が当社を訪れ、境内で踊念仏を行い、和歌を社の正面に打ち付けたという。
江戸時代に入ると、徳島藩蜂須賀家が当社を厚く崇敬した。
拝殿の脇には、芭蕉の「花ざかり 山は日頃の 朝ぼらけ」と刻まれた句碑がある。
本殿は、寛文十年(1670年)の再建であるらしい。
装飾がない実に簡素な一間社流造である。
本殿の手前に、遠い昔の土塀の跡と思われる土の塊があった。
昔あった土塀が、風雨によって洗われて風化し、土台の部分だけが残ったものと思われる。平安時代には、ここに土塀があったのではないか。
大和大国魂神社には、境内から出土した大和社古印が管理されている。兵庫県指定重要有形文化財である。
この古印は、慶雲元年(704年)に文武天皇が諸社に下賜した銅印の一つと伝えられている。
実際のところは、もっと時代が下った、平安時代初期に鋳造されたものと言われている。
清々しい気持ちで参拝を終えた。
おのころ島神社の巨大な赤鳥居も遠くに見える。
大和大国魂神社のような、日本列島の地主神のような名前の神社が、なぜここに建ったのか。
神話で淡路が伊邪那岐命、伊邪那美命が最初に生んだおのころ島であるという伝承があったからだろうか。
国土に魂が宿るという古代人の抽象的思考の始まりも、思えば興味深いものだ。