野辺の宮 丘の松 事代主神社

 一葉塚から南に約300メートル歩くと、右手に公園のようなものが見えてくる。

 淡路に配流となった第47代淳仁天皇が幽閉された場所とされる野辺の宮である。南あわじ市市十一ヵ所にある。

野辺の宮

 淳仁天皇は、天武天皇の第七子舎人親王の子で、大炊(おおい)王と呼ばれていた。

 叔母の光明皇后を後ろ盾とし、政権内で実力者となっていた藤原仲麻呂の推挙で、大炊王天皇に即位したが、政治の実権は仲麻呂が握っていた。

 仲麻呂は、淳仁天皇即位後、恵美押勝と改名し、皇室外で初の太政大臣に就任した。

野辺の宮鳥居

 押勝は、自分の親類縁者を要職に就けて勢力を拡大したが、道鏡を寵愛する孝謙上皇を諫めたことで上皇の怒りを買った。

 怒った上皇は、政治の実権を押勝から取り上げようとした。それを危惧した押勝は、天平宝字八年(764年)に兵を平城京に集め、軍事クーデターによって孝謙上皇道鏡を追い落とそうと考えた。恵美押勝の乱である。

野辺の宮

 だが密告によりクーデターの計画を知った上皇側は、兵を派遣して淳仁天皇から御璽を奪い、押勝側の部隊を討滅した。押勝も戦死する。

 名ばかりの天皇だった淳仁天皇は、押勝側の人物として廃位され、淡路島に配流されることになった。

 淡路に上陸した淳仁天皇は、高島宮(南あわじ市志知中島にある大炊神社)に居を定めたが、その後この野辺の宮に移ったとされている。

野辺の宮

 野辺の宮には、淳仁天皇を祀る祠がある。ここに幽閉された天皇は、慰みに琵琶を弾いたと言われている。

 境内には、その伝説に因んだ琵琶の辻の碑がある。

琵琶の辻の碑

 伝説では、淳仁天皇は、野辺の宮で亡くなり、ここで火葬されたという。享年32である。

 野辺の宮から東に約150メートル歩くと、淳仁天皇の初葬地と言われる通称丘の松がある。

丘の松(市陵墓参考地)

 明治3年に南あわじ市賀集にある天王の森が淳仁天皇陵に治定され、丘の松は陵墓参考地になった。

 今でも丘の松は陵墓参考地として、宮内庁が管理している。

丘の松

 ここから南に歩くと、南あわじ市市市(いちいち)という集落がある。

 集落の中心に事代主神社(戎神社)があるが、この辺りが古代に淡路国府の市が開かれた場所だと言われている。

事代主神

拝殿

本殿

蟇股の彫刻

 事代主神社の境内では、今でも年末には市が立つという。

 淳仁天皇が淡路で過ごした時間は、配流されてから薨去までの約1年間という短い間である。

 実質的にほとんど権力を持たなかった天皇が、この地で失意の生活を送ったことは、地元の人々の哀憐するところとなったようだ。

 そのためか、淡路には淳仁天皇にまつわる史跡が幾つかあり、今でも大切にされている。

 淳仁天皇は、淡路廃帝と呼ばれているが、この言葉には哀しい色合いがある。