淡路国分寺

 覚住寺から南西に行くと、浦壁大池という溜池がある。その周辺は、ナイフ型石器が発見された旧石器時代の遺跡の浦壁遺跡が発掘された場所である。

浦壁遺跡のあった辺り

 三原平野には、古くから人が居住していたようだ。

 ここから北上し、南あわじ市八木国分寺にある律宗の寺院、淡路国分寺に赴いた。

淡路国分寺

 淡路国分寺は、当ブログが初めて紹介する律宗の寺院になる。

 律宗は、南都六宗の一つで、奈良の唐招提寺を総本山とする宗派である。仏教の戒律の研究と実践をする宗派で、聖武天皇の御代に鑑真が日本に伝えた。

 淡路国分寺が唐招提寺の末寺になり、律宗の寺院となったのは、寛文六年(1666年)のことらしい。

 聖武天皇は、天平十三年(741年)に国ごとに僧寺と尼寺を建立するよう詔勅を出した。

 僧寺は、金光明四天王護国之寺と名付けられ、尼寺は法華滅罪之寺と名付けられた。これが国分寺国分尼寺である。

大日堂

 淡路国分寺は、天平勝宝八年(756年)の国分寺造営の督促の詔の後に完成したとされている。

 平安時代初期に成立した日本最古の仏教説話集「日本霊異記」には、宝亀六年(775年)に淡路国分寺に関する記事が出てくる。このころには完成していたのであろう。

 淡路国分寺は、奈良時代に建立された国分寺の法灯を今に継ぐ寺である。

 寛文五年(1665年)に建てられた大日堂の内部とその周辺には、天平時代に建っていた七重塔の礎石がある。

大日堂周辺の礎石

 大日堂の中には、大日如来像が祀られているが、その真下に中心礎石が安置してある。

 大日堂の中には入れなかったが、大日堂の周辺には当時の礎石が散在している。位置は多少動かされているようだ。

礎石の一つ

 昭和59年から昭和63年までの発掘調査で、塔跡には、一辺13~14メートルの基壇があり、中心礎石は約2メートル北へ移動しているのが分かったという。

 建立当時の国分寺には、塔の他に金堂、講堂、中門、南大門などがあり、寺域は南北約210メートル、東西約170メートルに広がっていたようだ。

 今の淡路国分寺の西側は、一面の畑であるが、旧国分寺の境内はこの畑にまで広がっていたという。

国分寺

 聖武天皇詔勅により、各地の国分寺には僧侶20名が置かれ、収入源として封戸50戸、水田10町が与えられた。

 しかし律令制の衰退や武士の勃興により、平安時代後期には、各地の国分寺の経済的基盤は弱体化し、衰退した。

 淡路国分寺も室町時代に入ると衰退した。

 大永五年(1525年)には諸堂が復興されたが、天正年間(1573~1592年)に焼失したという記録がある。

 江戸時代に入った寛文五年(1665年)に諸堂が再興されたという。

旧本堂

旧本堂内部

 境内にある旧本堂は、江戸時代中期に洲本城代稲田氏の家臣藤江与三右衛門宇治という人物が寄進したものだという。

 現在の本堂は、鉄筋コンクリート製で、そこに国指定重要文化財の本尊釈迦如来坐像が祀られている。

本堂

 釈迦如来坐像は、300円で拝観できるようであった。私が境内を歩いていると、お寺のご婦人がやって来て案内して下さった。

 ご婦人は、「今日は皆家で野球を観戦しているので、誰も来られないと思っていました」とおっしゃった。

 この日は、WBCの準決勝メキシコ戦で、村上選手が劇的なサヨナラ打を放って日本代表が勝利した日であった。私も史跡巡りの途中に、スマートフォンで日本代表が勝ったことは確認していて、気分が高揚していた。

 ご婦人によると、堂内は写真撮影自由で、SNSへの写真掲載も自由であるとのことだった。

釈迦如来坐像

 この丈六の釈迦如来坐像の像内には、暦応三年(1340年)の墨書銘があることから、その時代の造立であるとされている。

 暦応三年は、細川氏が淡路守護になった年であり、細川氏が本尊を寄進した可能性がある。

 だが地元の人の言い伝えでは、本尊はあくまでも天平時代に国分寺が建立された当時からのもので、暦応三年は像が修理された年に過ぎないとされている。

 天平時代に各地に国分寺が建立された時、本尊は釈迦如来坐像であった。

 各国の国分寺で今に法灯を伝える寺は、全国で約二十ヶ寺あるが、本尊は経年の痛みのために途中で廃せられ、ほとんどが薬師如来に変わっている。

 今も釈迦如来を本尊とする国分寺は、全国で淡路国分寺のみであるという。そう思えば、淡路国分寺は、天平時代の建立からの信仰の姿をそのまま伝えていると言える。

 釈迦如来坐像の前には、ケースに入った飛天坐像がある。

飛天坐像

 この飛天坐像は、平安時代後期の作とされている。兵庫県指定文化財である。

 飛天は、雲に乗って空を飛び、仏の徳を讃嘆供養する菩薩の特殊な姿である。

 両手が失われているので、当初の姿は不明であるが、京都宇治の平等院鳳凰堂の、雲中供養菩薩南1号像に姿が似ているという。舞うか楽器を演奏して、仏を供養する姿をしていたのではないかと思われる。

 本尊の周囲に並ぶ十六羅漢像は、寛政三年(1791年)に隣村の七川村の村長らの発願により寄進されたものだという。

十六羅漢

 十六羅漢は、仏教擁護を誓った16人の尊者を指す。

 私が参拝を終えると、いつの間にかご婦人は本堂の外に出て、元気そうな男の子2人の相手をしておられた。

 天平時代に聖武天皇の発願で建立された国分寺が、今もここに生きていることを実感した。

 私はご婦人たちにお礼を言ってお寺を立ち去った。