静の里公園

 淡路市志筑にある静の里公園は、源義経の妾であった静御前(しずかごぜん)の伝説地の一つである。

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静の里公園

 静御前は、白拍子(しらびょうし)であった。

 白拍子とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、男装して今様(いまよう)などを歌いながら舞った遊女を指す。

 静御前は、たぐい稀な美女であると同時に、舞の名手であったそうだ。

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静御前を描いた掛け軸

 義経は、平家を打倒したあと、兄の頼朝に睨まれ、追われる身となった。

 追われる義経は、寵愛する静御前と別れ、吉野の山中に分け入った。

 静御前は、これも白拍子である母の磯禅師と共に北条時政に捕らえられ、鎌倉に送られた。

 頼朝から鶴岡八幡宮の前で舞う事を命じられた静御前は、

しづやしづ しづのおだまき くりかえし 昔を今に なすよしもがな 

という歌を歌いながら舞った。

   歌意は、倭文(しず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきから、繰り返し糸が出るように、たえず繰り返しつつ、昔を今にする方法があったなら、というものらしい。

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公園内の水輪のモニュメント

 義経と過ごした昔を懐かしんだこの歌に頼朝は激怒したが、北条政子は同情し、静御前と磯禅師を京に返したという。

 鎌倉にいる時、静御前義経の子を生んだが、男児という理由で頼朝に殺害された。

 京に戻ってからの静御前の消息は不明であるという。そのため、日本各地に静御前が終焉を迎えたという伝説地がある。

 志筑の地は、頼朝の妹で、義経の異母姉が嫁いだ中納言一条能保(よしやす)の荘園だった。

 静御前は、その縁で晩年この地に隠棲し、この地で死去したとされている。静の里公園内には、静御前義経の墓とされる宝篋印塔が二基ある。

 実はこの静の里公園は、旧津名町が、竹下内閣が実施した「ふるさと創生事業」で交付された一億円を用いて、三菱マテリアルから借り受けた金塊を展示していた場所でもある。いわゆる「一億円の金塊」だ。

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展示施設

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一億円の金塊のレプリカ

 一億円の金塊は、当時話題になったものだが、平成22年に三菱マテリアルに返却され、今はレプリカが展示してある。
 公園には鯉が泳ぐ池があり、その池を過ぎると二基の宝篋印塔に至る。

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静御前の墓へと至る道

 この池には、一億円の金塊に因んでか、金色の鯉が泳いでいる。泳ぐ金塊と呼ばれているようだ。

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泳ぐ金塊の看板

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金色の鯉

 それにしても、人影が見えると口を開けて密集してくる鯉を見ていると、生命のいじらしさを感じる。我々も鯉とそう変わるものではない。

 さて、池を過ぎると、古びた二基の宝篋印塔がある。

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静御前義経の墓と伝えられる宝篋印塔

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 静御前の墓とされる方が、少し小ぶりである。つつましやかな静御前の人柄を伝えるようだ。

 義経は奥州で死んだから、ここに墓がある筈もないが、死後も義経静御前を寄り添わせたいという土地の人の願いがここに生きている気がした。

 静の里公園の西側にある池のほとりは、淡路最古の寺院だった志筑廃寺のあった場所である。

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志筑廃寺跡

 今はただ竹林があるだけだ。志筑廃寺は、白鳳時代に創建された寺院だったらしい。  

 当時の淡路の人からしたら、華麗な寺院建築と仏像は、驚きの的だったことだろう。

 史跡の中には、史実の範囲に入る史跡と、伝説の領域の史跡と、二通りある。記紀神話ゆかりの地は、ほとんど伝説の領域の史跡である。

 しかし、例え伝説であったとしても、地元の人に信じられ、大事にされてきた史跡であるならば、それだけで貴い価値のあるものと言える。