枝吉城跡 吉田南遺跡

 吉田郷土館の裏手に小高い丘がある。昔枝吉(しきつ)城があった丘である。

 麓には、神本神社という神社がある。

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枝吉城跡のある丘

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枝吉城跡登り口

 吉田郷土館の裏に城跡への登り口がある。低い丘なので、すぐに頂上の城跡に至る。

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枝吉城跡

 頂上は、公園のような広場になっている。広場には、「播磨吉田遺跡」の石碑が建っている。

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播磨吉田遺跡の石碑

 北九州から東遷した稲作は、近畿地方にも広がったが、かつてここにあった吉田遺跡の集落は、近畿地方で最も古い農耕村落であったらしい。

 室町時代に枝吉城が築城された時、吉田遺跡の村落跡は破壊されてしまった。

 枝吉城は、15世紀半ばに明石氏により築城された。明石氏は、古代律令制の明石郡の大領(郡司の最高官)の末裔であるという言い伝えがある。

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枝吉城の縄張り図

 枝吉城の東側には、城主の居館を中心に城下町が形成されていたらしい。

 天文七年(1538年)、尼子晴久が播磨に侵攻したことにより、赤松晴政播州から淡路の岩屋城に撤退する。

 翌天文八年(1539年)、阿波の守護細川持隆の援軍を得て、赤松晴政は明石に上陸し、尼子側についた枝吉城の明石長行、祐行と合戦を行う。枝吉合戦である。

 この合戦により、枝吉城は灰燼に帰し、城下町や寺社も焼失した。

 その後、16世紀末にキリシタン大名高山右近が枝吉城主になったそうだ。高山右近が最後の枝吉城主だったらしい。

 枝吉城跡の前には、浄土宗の寺院、永金山常纂寺がある。

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常纂寺

 常纂寺は、枝吉城が廃城となった後の慶長年間(1596~1615年)に林甫和尚によって創建された。

 本堂や庫裏は、大東亜戦争時の空襲で焼失したが、元文二年(1737年)築の弁天堂は損壊しただけで難を逃れた。

 弁天堂は昭和26年に修復されたが、平成7年の阪神淡路大震災により損壊する。平成10年に再度修復されて現在に至る。

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弁天堂

 また、本堂は戦後再建された鉄筋コンクリート製のものだが、ご本尊の阿弥陀如来像は、戦後修復されて、神戸市指定有形文化財となっている。

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本堂

 ここから少し南に行った廃棄物処分場の玉津環境センターの辺りが、弥生時代から鎌倉時代にかけての集落遺跡である吉田南遺跡があった場所である。玉津環境センターの西側に、吉田南遺跡の掘立柱を再現した公園が出来ている。

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吉田南遺跡

 玉津環境センター建設に伴い、昭和51年から昭和55年まで発掘調査が行われた。

 その結果、弥生時代から古墳時代までの竪穴住居址が98棟、奈良、平安、鎌倉時代掘立柱建物の址が76棟、井戸、溝や木橋の跡などが見つかった。

 特に、奈良時代後期~平安時代前期の掘立柱建物群が南北に整然と並んだ状態で発見され、硯、瓦、木簡、墨書土器、官人の帯金具なども見つかったため、ここは古代明石郡衙(ぐんが、郡役所)があった場所と目されている。

 吉田郷土館には、明石郡衙の模型や吉田南遺跡からの出土品が展示されている。

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明石郡衙の模型

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明石郡衙の正庁の模型

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吉田南遺跡出土品

 律令体制下では、郡役所として郡衙があり、国の政庁として国衙があった。
 国司は、天皇に任命された中央の貴族が赴任したが、郡司は地元の豪族が採用された。

 明石氏は、古くからの在地の豪族で、律令制下では明石郡司となり、室町時代律令制が完全に瓦解するに至って国人となり、戦国大名の家臣となったのだろう。

 当時の国司、郡司の役目は、住民からの税の徴収である。当時の税は穀物や衣料、労働という形で納められた。国や郡で徴収された穀物等は都に運ばれ、宮廷の生活や公共事業や軍事力を支えた。

 明石郡衙の模型を見ると、穀物を貯蔵していたと思われる高床式倉庫がある。

 当時の国司や郡司は、実際に徴収した穀物を少なめに中央政府に申告して、差額を自分の懐に収めることが出来た。地方に赴任しなければならなかったが、国司になると財産を築くことが出来るので、宮廷貴族の間では、国司は人気の役職であった。

 鎌倉時代になって、鎌倉幕府の守護、地頭が、国や郡の収入の半分を「治安維持費用」として持っていくようになった。朝廷の収入は急激に減った。

 室町幕府体制になると、律令制は完全に崩壊し、各国の守護大名が、朝廷が任命する国司に代わって税を徴収するようになった。

 戦国大名が登場すると、大名領は完全に独立国のようになり、もはや戦国大名は徴収した穀物を京に送ることはせずに、軍事力の増強や領国の経営に使うようになった。 

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明石郡衙掘立柱の跡

 収入が全く断たれた朝廷は、天皇即位の礼をするのもままならなくなった。

 江戸時代になって、徳川幕府が、朝廷に10万石の「領地」を差し出したため、朝廷は何とか文化的な生活を続けることが出来た。

 明治時代になって、再び日本の国土は朝廷(政府)が把握するところとなり、税は金納に代わった。

 こうして見ると、明治時代までの日本の歴史は、元々国(朝廷)のものだった土地からの収益が、徐々に私物化されていった歴史であると分かる。

 大化の改新の公地公民制で、日本の土地と人民は国のものとなり、律令制の樹立でそれが制度化されたが、徐々に貴族や寺社が私有地である荘園を作るようになり、その後武士が本来朝廷に回る収入を横取りするようになって、朝廷の力は衰微した。

 しかし一方、今まで地方の税収が京に吸い上げられていたのが、戦国時代になって全て地元で使われるようになって、地方は急激に経済成長した。戦国時代は、実は日本全土が大規模に発展した時代である。

 今の日本の主要地方都市の大半が、戦国時代から江戸時代にかけて城下町として形成された町であることからも分かる。

 経済的な面から日本の歴史を通史として見ると、人間の本質が見えてくる気がする。