王塚古墳 吉田郷土館

 神戸市西区王塚台3丁目にある王塚古墳を訪れた。

 当ブログも、ついに神戸市内に足を踏み入れたが、実は神戸市西区、垂水区の全域と須磨区、北区の一部は、播磨の区域内にある。王塚古墳のある場所も、播州の一部である。

 王塚古墳は、第29代欽明天皇の皇女、舎人姫王(とねりひめのおおきみ)の墓だとされている。

 「日本書紀」によれば、推古天皇十一年(603年)に、新羅に派遣された当麻皇子が、途中の赤石(明石)郡で妻の舎人姫王を亡くし、檜笠岡に葬ったとある。王塚古墳が檜笠岡に地理的に近いので、舎人姫王の陵墓に比定された。王塚古墳は御陵となるため、現在は宮内庁が管理している。

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王塚古墳の航空写真

 欽明天皇は、6世紀の天皇であるが、王塚古墳は、出土した埴輪などから、5世紀前半に築造されたことが判明している。

 天皇・皇族の陵墓として宮内庁が管理している古墳の中には、被葬者とされる人物の活躍した時代と実際の古墳の築造年代がずれているものがある。王塚古墳もその一つである。

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王塚古墳のある公園

 王塚古墳は、墳丘の長さ約74メートルの前方後円墳で、周濠に囲まれている。更にその周辺は公園として整備され、市民の憩いの場となっている。

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前方部

 古墳の斜面と周濠が接する部分は、綺麗に葺石で葺かれている。あまりにも整然と葺かれているので、後世に修復されたものだろうと思われる。

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後円部側から前方部側を写す

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後円部

 この古墳が築かれた5世紀前半は、倭国の国力は拡大しており、仁徳天皇陵のような巨大建造物を造ることができるほど充実していた。王塚古墳が舎人姫王の陵墓でないとしたら、ここに葬られた人物はどんな人物だったのか、興味が沸くところだ。

 王塚古墳の北側に、神戸市兵庫区出身の詩人、竹中郁(たけなかいく)の詩碑があった。

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竹中郁の詩碑

 竹中郁は、今ではあまり取り上げられることはないが、昭和初期のモダニズムを代表する詩人である。

 竹中郁の詩は、きらきら輝く神戸港を彷彿とさせる、明るさと素直さと優しさに溢れている。

 三島由紀夫竹中郁の「船乗りの部屋」という詩を暗記していて、昭和23年に銀座の路上で、作者竹中の目の前でその詩を朗誦したというエピソードを知ってから興味を持ち、5年前に「竹中郁詩集成」という竹中郁の詩のアンソロジー古書店で買った。

 この人の詩はどうしてこうも明快なのだろうと感じながら読んでいたが、調べてみると、案の定竹中が森鷗外の愛読者であることが分かった。鷗外の明晰な文体は、あちこちに巨大な影響を与えている。

 竹中郁は、戦後は児童詩の育成に努めた。兵庫県内の多数の小中学校の校歌の作詞も手掛けている。竹中は昭和57年に神戸で死去したが、地元神戸では、竹中は「詩人さん」と呼ばれていたそうだ。

 王塚古墳の南東の、神戸市西区枝吉4丁目に、明石川周辺の遺跡から発掘された土器などを展示している吉田郷土館がある。

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吉田郷土館

 王塚古墳の周辺には、陪冢(ばいちょう)とされる庚申塚、経塚、幣塚があったが、吉田郷土館の敷地にある石棺は、今は無くなった庚申塚から出土したものと言われている。

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家形石棺

 吉田郷土館は、この地方の中心的な弥生時代から古墳時代にかけての遺跡である吉田遺跡のあった場所に建っている。

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明石平野の遺跡分布

 吉田郷土館に、明石平野の弥生時代の遺跡の分布図が掲示されていた。これを見たらすぐに分かるが、遺跡はほぼ川沿いに集中している。

 当時の集落は、稲作ができる場所に造られた。弥生時代には、まだまだ大規模な灌漑設備や溜池を作る技術がなかったろうから、いきおい水を入手しやすい川沿いに人々が集まって農作業をするようになったのだろう。

 加古川流域も、大規模な古墳が多いが、早くから人々が定住しだした場所なのだろう。

 日本で初めて稲作が始まった地は九州北部だろうが、そこから徐々に東に伝わっていった。稲作の技術を持った移住者は、川沿いの平地を探して、そこに土地を定めて定住していったのだろう。明石川流域の遺跡も、移住者たちが開拓した集落の跡だろう。

 展示されている神戸市西区内の遺跡から発掘された土器や石器からは、稲作をした人たちの苦労と収穫の喜びが伝わってくるような気がする。

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収穫用の石器

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土器群

 穀物は、保存と持ち運びが容易なため、食料供給の安定をもたらし、人口の増大の原因となった。

 人口が増えると、新たな土地を探して人々の移住が始まる。そして新たな土地に水田を拓いていく。こうして日本列島に稲作は広まった。

 稲穂がたわわに実る水田の姿は、日本文化の基底である。