JR和気駅の北側にある富士見橋を渡ると、目の前に聳えるのが、和気富士と呼ばれる城山である。標高173メートル。そう高い山ではない。
城山の山上には、かつて北曽根城という山城があった。別名黒山城という。
戦国期に赤松家に反旗を翻した浦上宗景の家臣、明石景行が開いた城である。
赤松家の家臣でありながら主家を攻撃した浦上宗景も、今度は自分の家臣の宇喜多直家に裏切られ、滅ぼされてしまう。
明石景行から城主の座を継いだ弟の宜行は、宇喜多家の反乱に呼応し、浦上家を攻撃した。備前の戦国史は、裏切りと謀略の歴史だ。
城山への登山口は、麓にある稲荷神社にある。最近山歩きをするようになって気づいたが、大概の山の麓には神社がある。山自体が日本人に信仰心を起こさせるのだろう。
低山なので、15分ほどで山頂に着く。途中、ちょっとした石階があって、そこからの眺めが良かった。
山頂には、小さな祠と磐座がある。その横が過去に本丸があった場所のようだが、今はアンテナ塔が建っている。
唯一城跡らしい遺構として残っているのは、祠の周辺の石垣である。しかしそれもささやかなものに過ぎない。
この城も、主家の宇喜多家が織田家に降伏して、その後秀吉の時代になって、宇喜多秀家が五大老に入ったころには不要になったことだろう。
次なる目的地の永井家住宅に行く。和気町和気にある。
永井家住宅主屋は、国登録有形文化財である。大正5年(1916年)の建築で、歯科診療所として使われていた建物である。
今は使用されていない建物であるが、内部は見学できない。白いペンキ塗りの壁に赤いポストがアクセントになっている。地元では最も古い洋館である。
さて、次なる目的地の法泉寺に行く。
法泉寺は、和気町益原にある日蓮宗不受不施派の寺院である。不受不施派とは、法華経を信仰しないもの(謗法)から布施を受けず(不受)、謗法の供養もしない(不施)、という日蓮の当初の教えを固く守る宗派である。
秀吉が京都方広寺大仏を造った時に、千僧供養を行うことにした。秀吉は仏教各宗派に千僧供養への参加を求めた。この時に、日蓮宗の僧侶の大半は、権力者である秀吉に逆らうことをやめて、千僧供養に参加するのも已む無しという考えに傾き、受布施派となった。
しかし、京都妙覚寺の日奥だけは、不受不施を貫いて、千僧供養には不参加とすべしと主張し、日蓮宗の中で孤立した。
その日奥が、元和五年(1619年)、この地を訪れ、元々禅寺だった法泉寺を日蓮宗不受不施派に改宗させる。
寛文年間には、徳川幕府により、不受不施派は、キリスト教と同じく禁教となった。岡山藩も、幕府の意向を受け。不受不施派を徹底弾圧した。背いた者は、死罪流罪入牢といった刑罰を受けた。
信者は地下に潜った。大半の信者は、表面上他宗派の檀家となって、内心で不受不施派を信仰する「内信」になった。
文政二年(1819年)には、この地の信者が、不受不施派の僧侶日学を匿ったため、全員入牢させられた。益原法難というらしい。
明治9年(1876年)、明治政府により不受不施派の禁教が解かれ、この地に妙覚寺益原教会所が出来、明治36年(1903年)に法泉寺が再興された。
法泉寺本堂は、明治らしい和洋折衷の擬洋風木造平屋建の建物である。洋風の仏教寺院本堂というのも珍しい。
観光客は私以外誰もいない。不受不施派だからかは分からないが、賽銭箱などはない。誤って他宗派の観光客から布施を受けることがないようにしているのだろうか。私は他宗派だが、「法華経」もいいお経だと思うので、本堂に向かって頭を下げた。
本堂の隅に、元禄四年の銘のある梵鐘があった。
元禄四年には、不受不施派は弾圧されている筈である。この梵鐘がどういういわれを持つのか知りたくなった。
かつての日本には、信仰のために命を落とした人々が多数いた。人間に生命を捧げる気持ちにさせる信仰というものの不思議を思った。