岡山シティミュージアムの見学を終え、スイフトスポーツを駐車していた駐車場に戻り、車に乗り込んだ。
そこから北西に走り、岡山市北区津島本町にある日蓮宗不受不施派の寺院、鷲林山妙善寺を訪れた。
日蓮宗不受不施派は、日蓮上人が定めた不受不施義をしっかりと守り続けた宗派である。
不受不施義とは、僧侶・寺院は他宗の布施供養を受けず(不受)、信者は他宗の僧侶・寺院に供養しない(不施)ことを主義としている。
他宗派の者として、不受不施派の寺院に入るときはいつも緊張する。
参道を歩いていると、参道脇の庭石と紅葉の色彩の対照の美しさが目についた。
自然の美しさは、人の心を和ませる。
妙善寺の建つ地には、元々福輪寺という真言宗の寺院があった。
建武三年(1336年)、日蓮宗京都妙顕寺の二世大覚妙実が備前を訪れて巡錫した。これが備前に日蓮宗が広まったきっかけである。
福輪寺座主の良遊が、備前に来た妙実に宗論を挑んだところ、逆に論破され、それから福輪寺は一山ともに日蓮宗不受不施派に転じ、寺号を妙善寺と改めた。
しかし、寛文五年(1665年)に幕府が不受不施派を禁教とし、岡山藩主池田光政は藩領内の日蓮宗寺院の9割を廃寺にした。
妙善寺も無住寺となり、宝永五年(1708年)には堂宇が廃棄された。
しかし明治に入って不受不施派は公認され、明治13年には妙善寺跡地に本堂が建てられた。
大正14年に新本堂が出来て、旧本堂は客殿になった。
本堂に近づくと、矢張り賽銭箱はなかった。他宗から布施を受けないためだ。
本堂前で瞑目し、合掌した。
境内には、妙善寺の縁起を刻んだ石碑が建てられている。
石碑の後半には、
禁遏(きんあつ)ノ際ト雖モ強信跡ヲ絶タズ 不惜身命 護法ニ挺シ 厄難ニ殉ズ 星霜転々 流血ノ地正ニ精進ノ域ニ入ル 所感無量 建碑後代ノ為ニ志ス
とある。
血沸き肉躍るような文章だ。なぜこうも教えを護ろうとする意識が高いのか。
日蓮宗は、「妙法蓮華経」こそが釈迦の本懐で、衆生を救う唯一の経典としており、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることを重視している。
日本の密教と禅宗は、山川草木悉有仏性と言って、人間だけでなく自然界にも仏性が宿るという考えを持っているが、日蓮宗は、「妙法蓮華経」というたった一つの経典を崇める。
守るべき対象が、一つの経典であるため、意識がその一点に収斂していくものと思われる。
何より、守るべきものが、経典という具体的な物として現前しているからこそ、「教えを護る」という行動が具体性を持つのではないか。
境内には、黄色に紅葉した楓があった。
備前を訪れたのは12月5日だったが、まだまだ美しい紅葉が残っていた。
信仰ということを考えてみた。信仰とは、人が自分たちよりも偉大なものが存在することを認め、その偉大なものを畏れ敬い、救いなり現世利益なりを求める心の持ち方である。
人間以外の動物は信仰を持たない。人間は、自分の将来の死や苦を予想する想像力を持っている。信仰心は、その想像力が請来するところのものであろう。人間は死や苦から何とかして逃れることが出来ないかと考える。だがそれは初めから無理なのだ。
人間は完全な生き物ではない。不完全な生き物だ。信仰とは人間の不完全さが生み出したものである。信仰とは、その点で最も人間らしい営為だ。
自分だけでなく、全人類が不完全な生き物だと考えれば、少しは気が楽になるし、人を大事に出来るような気がする。