廣峯神社のある広峰山の東隣には、増位山が聳える。
増位山の中腹にあるのが、播磨天台六山の一つ、増位山随願寺である。
随願寺近くの駐車場まで、増位山の麓からドライブウェイが開通している。
案内図にあるように、ヘアピンカーブが連続するワインディングロードである。ここでスイフトスポーツの走りを楽しむと、タイヤがどんどんすり減ることになる。ほどほどにしないといけない。
さて、随願寺は、寺伝によると、高麗僧慧弁(えべん)が聖徳太子の命を受けて開基し、天平年間(729~749年)に行基が中興したという。
元は法相宗(奈良の薬師寺や興福寺が法相宗)であったが、天長十年(833年)に仁明天皇の勅命で天台宗に転じた。
天正元年(1573年)、三木の別所長治に攻められて全山が焼失した。当時は、社寺も兵力を持つ武装集団であったため、戦国武将の攻撃の対象になったのである。
天正十三年(1585年)、随願寺を秀吉が再興する。秀吉が手厚くしたことを考えると、随願寺は秀吉側についたのだろう。別所長治は秀吉に攻め滅ぼされてしまった。
江戸時代に、姫路藩主榊原忠次が当寺を菩提寺とし、整備復興に尽くした。今の伽藍は、大半が榊原忠次の時代以降に建てられたものである。
駐車場から歩いて最も手前にある開山堂は、国指定重要文化財である。開山堂は、山を開いてお寺を造る時に、最初に建てる建物である。平成9年からの解体修理の際に、寛永十八年(1641年)の墨書が見つかっており、随願寺に現存する建物で最も古い建物である。
開山堂から本堂方面に進むと、榊原忠次の墓所がある。
榊原忠次は、家康の天下取りを支えた徳川四天王の一人、榊原康政の孫である。文武両道に優れ、慶安二年から寛文五年(1649~1665年)までの姫路藩主時代にも治績を上げ、名君と呼ばれた。
墓所は、忠次の後継ぎの政房により建てられた。
墓所の入り口である唐門は、朱色が眩しい鮮やかな門だ。墓域を囲む煉瓦塀が江戸時代のものとは思えない。由来を知りたいものだ。
榊原忠次の墓石の前には、儒学者林鷲峰が榊原家の歴史や忠次の事績を三千字で記した碑文がある。
この碑文を一字一句間違えずに読むと、碑文下の亀の石が動くという伝説がある。
本堂は、元禄五年(1692年)の箆書名があり、元禄時代の様式を色濃く伝える建物であるそうだ。
豪壮な建物だ。国指定重要文化財である。堂内の天井には、天女や迦陵頻伽の絵が描かれていた。
本堂内の厨子は、厨子建築の傑作であるとのことだが、拝観は出来なかった。
また、当寺には、国指定重要文化財の毘沙門天立像がある。毘沙門堂内に安置されている。
本堂から石段を下りると、経堂がある。これも国指定重要文化財だ。
経堂は、大鬼瓦に宝暦十一年(1761年)の銘があり、撞木造りという珍しい形式であるという。
境内にあるもう一つの重要文化財は、鐘楼である。
鐘楼は、享保三年(1718年)の建築である。回縁付きの、袴腰付鐘楼である。朱色の上部と木肌そのままの袴部のコントラストが美しい。
天台宗は、最初は法華経信仰が中心であったが、空海と真言密教の影響を受けて、教義に密教を取り入れた。真言密教が東密(東寺の密教の略)と呼ばれたのに対し、台密と呼ばれた。
私は、生命力を肯定する教義を有する真言宗の派手でぶっとんだお寺も好きだが、寂びた禅宗の寺院様式と華麗で力強い密教寺院の様式を混交したような天台宗の寺院が最も好みに合う。
これからも、そのような天台宗の寺院を巡るのが楽しみである。