姫路市街の北側に聳える広峰山の中腹にあるのが、廣峯神社である。
広峰山は、往古、白幣山と呼ばれ、人々が神の山と崇め、神籬を建てて、素戔嗚尊と五十猛尊を祀ったという。
社伝によると、神功皇后が三韓征伐に出兵する際、白幣山で素戔嗚尊に勝利を祈願した。皇后は、無事勝利すると、帰路に白幣山に登って大祭を執行し、小宮を奉納されたという。
天平五年(733年)、遣唐使として唐に渡っていた吉備真備が、帰路にこの地に寄港した際に神託を受け、聖武天皇に奏上した。翌年、聖武天皇の勅命で真備公が社殿を建立し、廣峯神社と社名を定めた。
素戔嗚尊は、神仏習合の過程の中で、釈迦が説法した祇園精舎の守護神・牛頭天王(ごずてんのう)と同一神とされた。
廣峯神社は、牛頭天王を祀る社としては、京都の八坂神社と並んで、古い歴史を誇る。
天禄三年(972年)には、現在地に大規模な社殿を造営し、現在荒神社が建つ場所から神々を遷座した。
現在の本殿は室町中期に、拝殿は桃山時代に再建されたものである。
表門に至る石段は、工事中で立ち入ることができなかった。石段の途中にある国指定重要文化財の宝篋印塔も見ることが出来なかった。
表門は、元禄十年(1697年)の建築で、装飾の少ない簡素なものである。
拝殿は、幅が十間もあり、広角レンズのRX100でも全体像を1枚に収めるのに苦労する。
400年以上昔の古びた拝殿で、いかにも暴れん坊の素戔嗚尊の社殿に相応しい。
拝殿の柱も、罅が入っていて古い木材であると分かる。向こうに見える本殿は、柱を朱塗りにしている。
拝殿、本殿共、国指定重要文化財である。
本殿は檜皮葺の簡素な佇まいだが、この本殿の特徴は、裏に「九つの穴」が開いていることである。
吉備真備は、日本に陰陽暦学を広めるため、素戔嗚尊を牛頭天王(本殿中央)、御后神の奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)を歳徳神(本殿右側)、御子神の八王子を八将神(本殿左側)に配し、日本の暦の神とした。
九星のうち、自分の誕生年に当てはまる星の穴に、祈願事を書いた「九つの穴守り」を投げ入れ、祈願するのだそうだ。
現在、奥宮である荒神社がある場所が、現在の本殿、拝殿が出来る前に社殿があった場所とされる。
荒神社は、春日造りの小さな社殿であるが、薄い板を積み重ねた杮葺きの屋根が見事である。
荒神社には、素戔嗚尊の荒魂(あらみたま)を祀っている。パワースポットという観点で見たら、ここが最もパワーを漲らせている筈である。
荒神社の隣には、吉備真備公を祀る吉備社がある。こちらは新しい社殿であった。
ところで、廣峯神社は、黒田官兵衛ゆかりの神社として名高い。官兵衛の祖父、黒田重隆は、備前福岡から播州にやってきて、廣峯神社の神官と一緒に家伝の目薬を売って財をなしたという伝説がある。
廣峯神社では、大正時代まで目薬が売られていたという。神社の周辺には、かつて目薬を売った御師たちの邸跡が残っている。
黒田官兵衛は、廣峯神社を尊崇する気持ちが厚かったと言われているが、驚くべきことに、今廣峯神社拝殿の西隣に、官兵衛神社の建設が進んでいる。
大河ドラマ「黒田官兵衛」の放送から発案されたことだろうが、黒田官兵衛はこれを見てどう思っていることだろう。
自分が信仰していた神社のすぐ隣に、自分が神として祀られると知ったら、誰でも面映ゆさを感じるだろう。
せめて、本殿の裏にひっそりと建てて欲しかった。
拝殿の東側には、息吹木(いぶき)という霊木があった。
天禄三年(972年)に社殿をこの地に移した時に、この辺りに生えていた松の木のうち1株を残したものだそうだ。
地球上で1000年以上を生きる生物は、考えてみれば樹木くらいしか思い浮かばない。そう思えば、樹木は畏敬すべき存在である。
この木に、吉備真備が来た時や、黒田重隆が目薬を売っていたころのことをつい質問したくなった。